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「わかりやすさ(自分のスキーマに適合するかどうかで物事を判断してしまうこと)」の奴隷にならないためにも、一度は「わかったつもり」を読んでおこう

「わかったつもり~読解力がつかない本当の原因」を再読。

この本は、実際に文章を読み、自分の解釈と著者による説明を照らし合わせながらながら、一つ一つ自分の「わかったつもりの落とし穴」「読み方の癖」に気づいていくワークブックです。

結論自体は、p208からの4ページにすべてまとめられていますが、それだけだとこの本でいわれていることはさっぱり頭に入ってこないと思います。 なので、詳しくは、本を読んで確認してみてください。



「読む」という行為には「わからない」→「わかる」(わかったつもり)→「よりわかる」の3段階がある。

「わからない」状態に対して、私達の感覚は鋭敏です。そして、「わかる」ための努力の方向も比較的見えやすいはずです。

①文脈がわからないとわからない
②文脈がスキーマを発動し、文脈からの情報と共同して働く
③文脈がそれぞれの記述から意味を引き出す
④文脈が異なれば、異なる意味が引き出される
⑤文脈に引き出されたそれぞれの意味の間で関連ができることで、文が「わかる」

「わかる」をゴールだと思うとそれ以上進めない「わかったつもり」状態に陥る

読むという行為の障害は、「わからない」こどだと一般には考えられています。このことは、「わからない」から「わかる」に達する過程ではその通りです。しかし、「わかる」から「よりわかる」に到る過程における「読む」という行為の主たる障害は、「わかったつもり」なのです。「わかったつもり」がそこから先の探索活動を妨害するからです。

母国語であれば、ある程度は「読める」のです。そのような人たちが自ら「よりよく」読みたいと考え、また、そのような人たちに対して文章理解の向上を援助しようと考えるなら、「わかったつもり」という状態の存在をはっきりと理解することと、それからの脱出をいかに図るかをはっきり認識して置かなければならないのです。

「わかったつもり」の状態は、ほうっておくと進展しません。かなり意図的に対策を講じないと、脱出は難しいと考えてください。

なぜ「わかったつもり」になるのか =文脈や文章の雰囲気に支配されてしまい、部分を正確に読めなくなってしまうから

「間違ったわかったつもり」の状態では、部分が読み飛ばされてしっかりとした意味が引き出されていません。全体の大雑把な文脈を打ち破るほどには、部分が読まれていないので、間違った状態が維持されているということです。
簡単にいえば、部分の読みが不十分だったり間違っていたりしているので、間違った「わかったつもり」が成立するのです。
(中略)
大多数の人にとって、「読む」という作業は、部分の理解を積み上げていって、全体に関する理解をつくり上げるものだと思われています。しかし、第二章で述べたように、私達はむしろ文脈を使って部分を読むのです。ですから、文脈を使って、部分から間違った意味や漠然とした意味を引き出して、間違った「わかったつもり」を維持することになるのです。

文脈は諸刃の剣です。適切な文脈がなければ「わからない」状態を引き起こしますが、存在する文脈が強力であればあるほど、それによる間違いを引き起こす可能性が高くなるのです。

「わかったつもり」のバリエーション

①「結果から」というわかったつもり(帳尻が合えばOKだよ派)
文章の結末に強く影響された文脈を、読み手が作り上げ、それを使って各部分を読み間違うことで、「わかったつもり」に誘われてしまうのです。

②「最初から」というわかったつもり
「徐々におきる変化」こそ読むべきことなのです。それを、最初からそうだった、と同じペンキで塗ってしまったのでは、変化の面白さ、玄妙さを味わえなくシてしまうという欠陥を持っています。


③「いろいろ」というわかったつもり
「いろいろあるのだな」と認識した時点で、実は人はそれ以上の追求をやめてしまうのです



「よりわかる」を阻害して自分を「わかったつもり」に押し込めるスキーマのステレオタイプ

読み手が、自分が持っている「スキーマ」を文章に簡単・粗雑に当てはめてしまうことに酔って、間違った「わかったつもり」や不十分な「わかったつもり」を創りだしてしまうのだということを、私達ははっきりと確認しておく必要があります。

文章にそれらしい記述があると、そこにいかにも当てはまりそうな、時代にマッチし、通りの良さそうなスキーマが誘発され、読み手がそれらのスキーマを使って、部分を読み飛ばし、都合の良い意味を引き出して、「わかったつもり」を構成してしまうということです。

私達は、「エコ」「絆」など現代という時代にマッチする、通りの良い多くの知識を保持しています。これらはそれぞれひとまとまりの知識群をなしていることが多いでしょうから、スキーマというふうに呼んでおきます。これらのスキーマが文章を読むときに「わかったつもり」へと誘う魔物に化す危険は考えられないことではないでしょう。むしろ、かなり高いものであると考えたほうがいいかと思います。

その人のスキーマがトンデモ・固定的すぎて、その結果文章の記述の部分が読み飛ばされ、そこから引き出される意味も予め決定づけられるような場合、もはや文章を読むことに意味はありません。

このあたりの記事も参考になるかもー。
http://blackcat.hatenadiary.jp/entry/2014/04/08/231854
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20120816/p1



「わかったつもり」から進んで更に読みを深めるには =「より細かい文脈」という道具を使って「部分」から具体性をもった意味をさらに引き出す

「わかったつもり」の状態は、ひとつの「わかった」状態ですから、「(自分にとっては)わからない部分がみつからない」という意味で安定しています。わからない場合には、すぐその先を探索にかかるのでしょうが、「わからない部分が見つからない」ので、探索しようとしない場合がほとんどです。

もちろん、文章は常に深く読む必要があるわけではありません。例えば船に関するこの文章を、今以上に深く読む必要が必ずしもあるわけではないのです。ただ、「わかったつもり」に絡め取られた現状を認識し、よりよく読もうとすれば、どんな工夫が有効なのか。

(中略)
すなわち、各部分の記述から、事例としての大雑把な意味しか引き出されていないのです。したがって、もっと個別の具体性を持った意味を引き出せれば、「わかったつもり」からの脱出が可能になるわけです。つまり、「より細かい文脈」を道具に文章を見直すのです。

この本では、例として「目的・機能」と「それを果たすための構造・設備」という道具などを提示しています。


「わかったつもり」の壊し方 =自分との戦い

この状態は、読みて自らが構築したものなのです。ならば、より良く読むためには、自分で作り上げた現在の「わかった」状態を自分で壊さなければならないのです。この時、自らの甘さを通関させられることにもなるので、それはなかなか大変なことです。このような意味で、敵は自分でもある、と言えるでしょう。

この部分は次の記事で書きます。