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「本当の自分(自由意志)」探しの深淵

「自分が無い」と感じることについて - ゆーすとの日記はてなブックマーク - 「自分が無い」と感じることについて - ゆーすとの日記


彼らは自分の「内部要因」を一番大事にしているように見える。「自分が何を感じたか・考えたか」を正確に認識する能力に秀でており、それを大切にし、それを貫くことを厭わない。一方自分が無い人は、そもそも自分の感情・思考に対して鈍い。自分の抱く思考・感情にコンプレックスがあってそれを無理に押しこめているか、あるいは「外部要因」を重視しすぎているか。人の目・意見を気にしすぎるあまり自分を抑えることを繰り返していると、気づいたときには他人の意見に振り回され、ふらふらと流れされるばかりの自分が出来上がっている。まさに「自分が無い」状態だ。


ここの部分、意図してかせずしてか、めちゃくちゃめんどくさい「自由の深淵」問題に首を突っ込んでる気がする。

ゆーすとさん自身は、「本当の自分=完全な自由意志はあるか」なんてめんどくさいことを考えてるわけではなくて、「自分に対してしっくりくる」ためにどういう取り組みが可能だろうか、ということをかんがえているのだと思う。実に地に足がついたしっかりした意見。同意。

知識とか経験とか好き嫌いとか、細かいパーツが積み重なってひとつの色を作り自分を構成する要素になるんだから、「自分探し」にアウトプットは欠かせないはずだ。またそのアウトプットを終える前か後か、紐解いた歴史や色を踏まえた自分なりの“入射角”が見つかれば、一応の成功と言えるんじゃないかと思う。言い換えれば自分の価値観とかやり方とか、あるいは世界を通して見るフィルターだ。自分に「しっくりくる」それが見つかれば、生きやすさから変わってくる

ただ、ゆーすとさんは大学生ということで、一度はこの不毛かもしれない議論に是非挑戦してもらいたいなと思う。


このレベルで「自己」というものを真剣に考えるのであれば、カントの批判三部作やら、西田幾太郎に挑戦しろって話になるみたい。私も先輩にそそのかされて、カントに挑戦してみたことがあるのだけれど、もともと基礎体力を養ってこなかった私にはあまりに難解すぎて知恵熱出してギブアップしてしまった。 そのあとカント研究家の中島義道の著作に走り、「なんとなくわかったつもり」に成った時期もあるけれど実際はなにもわからなかった。 結局諦めて、この件について考えるのをやめてしまった。 

でもこのあたりのことを出来る範囲までで挑戦して考えてみた経験があると二度と「本当の自分」みたいなことを言い出さなくなる。実際私はコレ以降そういうことで悩んだことがあんまりない。大学生卒業してからも、そういう本当の自分信仰から抜け出せない人がいることを考えるとみんな一度はここに挑戦して挫折するべき!どや!(自分がひどい目にあったから、他の人も同じ目にあうべきだというミイラの発想)



サンプル程度に、本当の自分=自由意志について考えることのめんどくささについて。

自由意志がそもそも存在しないとしたら、人間を、他の動物とは決定的に異なる道徳的存在として扱う理由はなくなる。そのためカントは、「自由意志」の存在を証明できないことがわかっているにも関わらず、道徳を成立せしめるためには、「自由意思」が"ある"かのように振る舞わなくてはならないという論を展開している。

「とりあえずヒュームが気に入らねぇ!」って感じがして良いですね。

実践理性批判におけるカントも、"自由意志"をめぐる袋小路に直面している。カントは、いかなる因果法則とも関係なしに、純粋な善意思(=自由意志)に基づく道徳命題があるとしたら、それは「~したいなら、汝、~すべし」という形の仮言命法ではなく、無条件に「汝、~すべし」と命じる定言命法でなけければならないと主張した。しかし、そうした"善なる自由意志"が、本当に無条件に、つまり純粋に自発的に、"私の心の中"に生じてくるとしたら、どこに"他者"が入ってくる余地があるのか?
(中略)
簡単に言うと、"私の自由意志"の内に、私の外部に存在する「他者」が入ってくる余地は、本来ないのである。しかし、他者の存在抜きの「道徳」などあるのだろうか?それを「道徳」と呼ぶに値するのか? キリスト教などの信仰にもとづいて、「神が私の自由意志を導く」とかんがえるのであればなんとか話しの辻褄を合わせることができそうだが、仮に神の存在を認めるとしても、一人の生身の人間が"神の意思"を推し量ることはできない。神を持ちだして辻褄あわせをしたとしても、"神の意思"自体は認識不可能なのだから、この地上の世界において、人々の行為の指針になるような道徳体系、あるいは、それと連動した法哲学、政治哲学をそこから導き出すことはできない

もうここらへんの定義からして頭痛いです。数学とか得意な人のほうが読みやすいのかもしれません。

ここから、善悪の「判断」やら、「美」の感覚といった話に入っていくわけだけれど、私は頭がパーン!ってなった。
サンデル教授の白熱教室におけるカント講義でも此処から先にはあまり踏み入ってなかったので、結局全くわからずじまい。




まずはコレ。中島義道節はあまりない真面目な本です。(論文が元になってるからアタリマエか)義道ファンには不満かもしれないけれど



今見返しても面白い。カントについては序盤でやってくれます。



個人的に、中島義道より、この貫成人って人の本が私みたいに哲学に適性が全くない人間でも「わかる」状態までは連れて行って行ってくれるのでオススメ。義道さんは、面白いけれど、カントの話がわかったかどうかは自身が持てないというか、当時はなんとなくわかったつもりになってたけれど、今全く記憶が無い。この本の次に「よりわかる」状態に進むために次何を読めばいいのかは私もよくわかりません。



最近読みました。アーレントは晩年になってカント哲学を彼女なりに発展させ、政治につなげようと試みた人だというのは知らなんだ。また、カントの生き方は知れば知るほど「こいつほんとに人間か」と思わされる。人間について誰よりもつきつめて考えた人が、わたしから見たら人間に見えないという不思議。