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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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差別的発言やヘイトスピーチについてのチラ裏

今後自分がこういった人間の暗黒面に堕ちてしまう危険は実は結構あると思う。
そうならないことを祈る。


毎年毎年、GWや夏休みなど長期休暇に入ってニュースがなくなると
なぜかはてブでは差別者の発言が吊し上げのような形でよく目立つようになる。

http://togetter.com/li/662064
https://twitter.com/minenayuka/status/461904548638900224
https://twitter.com/ByeBye_Life/status/462030527126441984

あほらしいと切って捨てるのは簡単だけれど、
どうしてこう「おれにとって気に入らない奴」を差別的に表現する人が後を絶たないんだろうか。
そして、それは自分と無縁のことなのだろうか。私はそう思えない。



「社会的にみて弱者とみなされないものの、己の立ち位置にコンプレックスを抱いている人たち」

この3つの補助線としてこの言葉は大事だと思う。

「社会的に認められた弱者と、そうでない弱者って、こうまで扱いに差があるんだね」

http://synodos.jp/society/5846

自らの「傷つきやすさ(vulnerability)」を強く意識している人ほど、マイノリティの権利の擁護や差別からの保護の主張に対して複雑な反応を示す。それは、同じように「傷つきやすさ」を抱えたマイノリティへの共感という、教師がしばしば期待する反応であるとは限らない。むしろ、同じように「傷つきやすさ」を抱えているのに、なぜマイノリティの人々だけが保護され、優遇されなければならないのか、という違和感・反感であることも少なくない。

加害者側はそもそも、被害者側と討論したり対話したりするためにヘイトスピーチを発するわけではない。ヘイトスピーチに目的があるとすれば、それは他者の社会的承認の否定、すなわち相手を物理的・社会的に沈黙させ、排除することである。

「社会的にみて弱者とみなされないものの、己の立ち位置にコンプレックスを抱いている人たち」は多いと思う。

例えば、学生であれば中堅以下の高校やFラン大と揶揄されるような位置にいたり、
ある程度のレベルの学校にいても落ちぶれていたりいじめられていたり。
社会人であれば、ワープアあるいはブラックな環境で仕事をしていたり。
あるいはそこそこの会社に努めていても、新人であったり職場の力学の関係で
理不尽な毎日に耐え忍んでいるような人たちなどなど。

最近で言えば、ニコニコなんかのコミュニティでもそういう感じで
わざわざコンプレックスを育んでいる人たちは少なくないのかな、と思う。


「自分の弱みを公に表現することは、悪である」いう規範の内面化とか、それが他人に向けられることとか

しかも、それに関して、今の日本では弱音を吐かないように教育されている人も少なく無い、と。

今日の日本社会において、人が抱える「傷つきやすさ」は原則としてその人の個人的問題であり、したがって「自己責任」で克服しなければならないという価値規範が大きな影響力をもっている。
こうした「強さ」のイメージは、他者に自分の「傷つきやすさ」を開示し、共感に訴えようとする主張に対して発せられる「それは甘えだ」という非難としても表現される。

つまり、親も教師も、誰も助けてくれないし共感もしてくれない。
それどころか「むしろ弱みを抱えてる奴が悪い」と教育されてしまっている。
実際に自分がつらい時でも、「つらい」という声を上げることすら許されない。
むしろ「自分の弱みを公に表現することは、悪である」いう規範すらを内面化してる人も少なく無いと思う。


自分の弱さと向き合えないと、人の弱さを許せなくなる気がする

実際に自分がつらい時でも、「つらい」という声を上げることすら許されない。むしろ「自分の弱みを公に表現することは、悪である」いう規範すらを内面化してる人も少なく無いと思う。

「自分の問題を自分で解決することのできない劣った者」という意味での「弱者」としてマイノリティがスティグマ化される

私はかなりその傾向が強いと思う。
人からなんどか「ちょっと自責的すぎる」「ぶっちゃけ重たい」とも言われた。
ネットでもなんどかそういう話をされた。

あまりつらかったりしんどかったりしても、弱音をいうことができないし、
人間って、一定以上距離が縮まると、そういう弱みなどを抱えてかくしておけないけれど
そうやって弱みを知られると、そこを徹底的につかれるのではとおそれてしまう。
あまり自分のダメな点を表に出しにくい。取り繕ってばかりで人とあまり上手に付き合えない。
友人はいるし、異性の人と付き合っていたこともあるけれど、
結局その辺りがネックで一定以上親しくなれない感じがする。


自分だけならまだしも、特定のことについては、自分だけでなく他人に対しても非寛容である。
特に、自分がつらい気持ちを抱えつつ、誰にも頼ることもできずに必死で克服したような事柄や、
今も克服しきれず、かといってその辛さを打ち明けられずに耐え忍んでいるようなことについて、
他人がそのことに対して泣きごとをいうことにたいして、強い嫌悪感を感じてしまう。
それでも、そういう嫌悪感を表に出すことがよくないこともわかっているからそれも基本的には我慢してる。

私がどうしても許せなくて暴走してしまったのは、
「自分は他人に対してヘイトスピーチをするのに、
 自分のつらさは無制限に受け入れて欲しい」とする態度である。
私はこのバランスの悪さが死ぬほど嫌いであるし、今でも全く許せていない。


「自分の辛さを表に出すなら、他人がそうすることにも寛容であるべきだし、
 他人の甘えを許容できないなら、自分も甘えを捨てるべきである。」
という状態で凝り固まっていて、
その上どうしても、他者にたいして寛容になれず、
結局自分も自分のつらさを表に吐き出すことができないまま内側に抱えながら悶々としている。


こんな状態で、30を過ぎて、老いを意識するように成ることを考えると恐ろしい。
老いとは、いままでできていたことができなくなることだと思う。
その代わりになる経験や知恵などが得られないなら、今後は弱みばかりが増えていく。
それを弱みと考えている限りは、どんどんどんどん「弱み」が降り積もっていく。
そこで隠しきれなく成ったり、ごまかしきれなく成った時点で自分は破綻してしまうのではないか。


「つらいことをつらいといえない」というような些細なところがスタートなのではないか。
自分の状況について、自分がどう感じているかに向き合うことができない人たちが、
ついついそのもどかしさを他人にぶつけてしまうという、
日常でもよくある感情のわだかまりが問題なのではないか。


その際に、知識でも社会的立場でもなんでもいいから歯止めを持たない人たちが、
自分より弱い、反撃できない者を見つけた時に、ついに自分のタガを外してしまうのではないか。
私だって、失業してニートになったり、いろいろ絶望して失うものがなくなったら同じことするのではないか。
だとするならば、差別発言やヘイトスピーチは、今はともかく、将来の自分には無縁ではないと思う。

自分の感情を吐き出せる場や、話を聞いてくれる相手をちゃんと持って、
まず自分でちゃんと自分の感情に向き合わないといけない。
それを避けて、他人を攻撃する形でtwitterやブログで吐き出すのは危険すぎる。
うまくいく人も居るのかもしれないけれど、私はそれだと多分どこかで破綻する。


もうひとつの「強さ」のありかたを意識したい

そういう意味で、あくまで私にとって、だけれど
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140427/p1

「弱さ」は悪ではない。苦ではある

シロクマさんの書いた記事の内容には反発を感じる。
だが、このフレーズはすごく響いたので今後も使いたい。
私は弱さや甘えは悪だと思ってるし、それでいて弱いところだらけの自分のことがあんまり好きじゃない。
別にいまさら自分のこと好きになれるとは思ってないけれど
とりあえずそれを悪だと思ってしばくんじゃなくて、
「あ、今自分かなり苦しいんだなー」ってのをちゃんと噛み締めて、その感情自体は否定しないようにしたい。

「他者が自分の傷つきやすさを利用するのを恐れることなく、自分の傷つきやすさをさらけだすことができるくらい強い、という強さ」と呼んだ、もうひとつの「強さ」

これを身につけられるかどうかはわからんけれど
そういう形の強さもあるんやなーということは意識しておきたい。




私は最近大腸がんの手術のために入院した。
手術は無事終わって退院もできそうだけれど、
私の趣味であったDDRはもう以前のようにガチプレイはできない。ジョギングも、あまり充実感をもって取り組めないだろう。
マンガやアニメが好きだけれど、30過ぎてきていつまでも続けてられるかどうか分からない。
体力落ちてきたら、これまた趣味の一人旅行とかもできなくなるかもしれない。
精神的にどんどん後ろ向きになっていったり、ひきこもりになっていく危険もある。
仕事についても、今はそこそこやりがいを感じていたが、
正直体力的に相当辛く、給料はいうほど高くない。しかも決してこの先が安泰というわけではない。

そもそも今のところ面と向かって社会的に差別されていないだけで、
精神科のお世話にかかって長いし、独身だし、キモオタだし、欠陥だらけだ。
それらを表に出したら差別されるかもって恐れが結構ある。
その恐怖から、代わりの人間を叩いて、自分を保つ、みたいなことになりたくない。

だから、そういう状態に対して、特に他人にいう必要は無いけれど
「私は、つらさや不安を感じてる」というのをごまかさずに認められるようにはなりたい。