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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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比喩やたとえ話に対する私の感情についてのメモ

比喩
ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること。たとえ。

まとまらなかったのでメモ形式に。


・私は基本的に比喩や例え話が濫用されている記事があまり好きではありません。
 正確に言えば、比喩というものは、単独では評価できないものだと思っています。
 とはいえ、自分もなんだかんだいって無意識に使ってしまうことが多いです。
 比喩や喩え話をしたがることは、人のサガ的なところがあると思います。(後に説明)
 そこまでわかってはいても、やはり多用したいとは思っていません。



・比喩が有効に機能するためには必要条件があると思います
 「話し手が伝えたいことについて、少なくとも本人はしっかりと理解できていること」です。
 その上で、比喩が、本人の伝えたいことを的確に表現できていた場合についてのみ価値があると感じます。




・下手くそな比喩と、説得のための喩え話は無価値な上に不愉快だけで
 私にとって百害あって一利なしなので削って欲しいと思うことが多々有ります。
 もちろん、読み手である私がその比喩や喩え話を理解できていないというケースも少なからずあり、
 決して書き手だけの問題では無いのですが。




・一方で、私は、上手な比喩や喩え話を読むと感動します。
 自分の話を上手な比喩で言い換えてくれたり、
 喩え話によって話の構造を過不足無く単純化してもらうと本当に嬉しい気分になります。
 そして、自分もそういう言い換えができればいいな、とその時は思ったりします。



・ですが、やはり上にあげたような、必要最低条件を満たしていない状態で
 比喩や喩え話を濫用・悪用するケースを見ることがネット記事では非常に多く、
 その度に、悪質な比喩や質の低い喩え話を駆逐したい欲望に駆られるのでした。



・私個人では、比喩と喩え話というものを以下のように理解しています。

①比喩は、一般的な表現だけでは伝達が難しい書き手の感覚を伝えるための手法。
②例え話は、もともと伝えたい話題について直接語ると複雑すぎて説明しにくいため、
 その話題についての思考のプロセスをまず簡略化・単純化して相手に渡しておくための道具。

あくまで、どちらも補助的な役割であり、本体は「伝えたいもの」であると考えています。
ところが、これが主体になってしまっている記事を多く見かけます。

最初は比喩のつもりだったのが、変に比喩をつかったせいでそちらの話に脱線して戻ってこない。
あるいは、喩え話で合意を得られたら、元の話まで合意を得られると勘違いしてる。
そういういい加減な記事を読むと、かなりイラッとします。



・「大体合ってる」「あるある」で満足すればいいんだろうけれども。なんかやだ。



その他

①喩え話は、聞き手にイメージを喚起させ、快感を与える

なんとなくわかったようになる。この“なんとなくわかったような”というのが、すごく大切なところです。
イメージしやすい。なんとなく分かった気になって、心に入り込んでくる感じがするのではないでしょうか。

http://blog.livedoor.jp/itakle0124/archives/1000899574.html

例え話ができるのは、相手に伝えたいテーマが完全に「自分のもの」になっているから。そのため、有能な人ほど例え話がうまい。

②日常会話における比喩は「個人の発見や感覚」の表現

比喩は何の為にあるのか?比喩には直接的なメッセージよりも、「読み取った」という確かな手応えがある。それは発信者の誘導ではなくて、あくまで一個人の思考が獲得した素晴らしい「発見」なんだと、僕は教わってきた。

https://twitter.com/FoZZtonebot_/status/269166899894579200

比喩を好む理由は分かるんですよ。この「個人の発見や感覚」を表現したいって気持ちだと思う。



③隠喩の効果
http://members3.jcom.home.ne.jp/balloon_rhetoric/example/metaphor.html



⑤注意点
http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BE%8B%E3%81%88%E8%A9%B1

すでに存在する具体例に合わせてストーリーを作ると説得力や分かりやすさが増すため、自然現象や物事の仕組みについて説明する際の例え話は非常に有用であるが、語る人が自分の望む結論を得るために例え話を作り選択することが可能であるため、一定の結論を導くことの難しい話し合いにおいての例え話は注意深く考察することが必要である。説明したい事象と例え話が完全に合致していない場合もあり、討論や話し合いにおいて例え話を用いた場合、本来話し合いたい内容ではなく例え話に対しての無駄な突っ込み、議論が始まる事があるため、それにも注意が必要

⑥そもそも論

「対象が在る」ということとその気分としての「向き合う者が在る」というまったく異質なもの同士が暴力的に結びつけられる―これを第一段階と考える。この二項は「~が在る」という存在詞によって媒介されるので、存在詞的段階とする
②向き合う者は気分に見舞われた自分自身の状態を既に知っている状態と置き換えてみることで対象を把握しようと試みる。このときむしろ主題は対象そのものから向き合う者の中へ移っているかのようである。これを第二番目、「~のようである」という形容詞+存在詞的段階としよう。
③わたしたちの認識は二項構造を持つ命題の形を取るのであった。

http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou23/kiyou23_16.pdf

 比喩によって見出されるのは元の文脈よりもさらに広い範疇ということができるだろう。
 わたしたちが、そこに生き生きしたものを見るのは、比喩がそれがおかれた文脈だけでなく、わたしたちの内部の言語にも働きかけてくるからと言えよう。 隠喩に代表される比喩とは、身体を媒介とした根源的な認識の在り方であった。様々な側面で変容する状態性「~が在る」の総体としての身体が未知なるものを既知の異なるものに置き換えて把握するこの働きをわたしたちはイメージと呼んでもよいのではないか。日常の言葉に立ちながら、わたしたちは比喩を用いることでより大きい枠組みを見い出し、平板な文脈に立体的な部分を取り込もうとする。
異なるもの同士が暴力的に結びつき切り離される根源的な隠喩の領域と、切り離しと結びつきとを繰り返すことで透明度を増した純粋な語が互いに隣接関係を織りなして行く論理の領域との二極に分かたれながら、純粋な言葉は現実の対象へ、可感的な対象はわたしたちの中の言葉へと循環してゆく。「もの」と「こと」、非連続と連続、そして部分と全体とは、互いに更新しつつ動き続けるのである

言語と認知の構造上、比喩というのは人間にとって実に自然な行為であるということがわかる。
人間は、イメージしたものを言語にするのであって、言語が先にあってイメージするわけではない。
人間の認識は、目の前にあるモノが自分と独立して決まったメッセージを私達受け手に強制的に植え付けるようなものではなく
受け手が己の内面と照らし合わせながら加工して受け取る形になっている。
この「加工」が比喩の原初であるから、何を認識するにしても、比喩的な行為は絶対に生じている。そこは否定出来ない。
ただ、その自然な過程を乱暴に、無加工のままに表現するのを比喩表現と呼ぶのは抵抗がある、という話です。



⑦上級編 異化効果 (ブレヒトの演劇論とは別)
http://p-o-v.sakura.ne.jp/high/hiyu4.htm

適切な比喩は、物事の本質を一瞬のうちにつかませてくれるもの。比喩とは、作者が伝えたいことを言い当てるためにあるものです。ならば異化とは、従来の言葉では表現しきれないことを、その「普通とは違う使い方」でもってズバリと言い当てるためにある