この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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ネットにおける「キャラ作り」についてのメモ

「キャラクター精神分析」 2章「キャラ」化する若者たちのまとめ。

過去にも似たような話を何回かしたことがあるんだけれど何回やってもしっくりこないのよねこの話題。


キャラ作りの2つの動機


①「何者にもなれない私」から手っ取り早く脱却するための手法としてのキャラつくり
簡単に言えば「誰かが与えてくれるのを待つの不安だから、自分で決めてやる」

匿名化にさらされた個人の心に、固有性とは別のしかたで一つのまとまりを与えてくれるのが「キャラ」なのだ。記述しきれない固有性とは異なり、キャラは記述することが可能である。むしろ、常に記述されなければ存続されないのがキャラなのだ。

これは、「成功しなければだめだ」といった領域の話ではなく、人生はすべて偶然の産物であり、運命というものは存在せず、己の人生が固有のものであると信じられなず、そこに意味も目的も見出せない、アノミー!というようなお話。

まあその領域で考えなくとも、何の方向性も持たず人の間に飛び込むと、絶えず比較に晒され、相対的に劣ると劣等扱いされて迫害されるような恐怖が今の世の中にはあるのかもしれませんね。知らんけど。

これについて、とりあえず自分で意味を規定してしまおう、無理やりでもいいから役割を作ってしまおう、というのが「キャラ」の目的の一つめ。もちろん、自分を客観的に冷静に振り返ってそう分析したつもりでも実際はそうでない場合は、無自覚にこのタイプのキャラ規定を行っていることになる。




②「親しい人」に閉じた世界の壁をのり越えるために必要な個性の圧縮処理としてのキャラつくり
簡単に言えば「わかりやすくないといじめられそうだからわかりやすくする」

キャラのもう一つの特徴として、複数の世界のどこにあっても、そのキャラの同一性を維持できる、ということがある。とっさにドラえもんのタイムスリップものを思い出したあなたは正しい。

己の固有性は突き詰めてしまえば根拠があるものではなく、記述不可能なもの。そういう己の固有性を、伝えるのは非常に困難というか文章ではほとんど無理。これが伝わるのは、ほとんどその人と親密な付き合いがある人だけになる。

そして、細かいニュアンスなんてものは受け取り手によって変わってしまうし、そこから誤解も生じ、いろんなトラブルがおきやすい。今は、そうした小さなトラブルが致命傷になってしまうような世知辛い世の中になってきているようだ。

ならばということで、場所を移動しても、状況が変化しても、受け取り手が違っても常に変わらない部分、記述して、誰にでも誤解無く共有しやすい部分だけで人と接しましょう、という話。「シュタインズ・ゲート」のDメール圧縮なんかが究極系だと思います。



キャラを維持するためには、絶えずそのためのコミュニケーションを供給する必要がある

キャラを維持させてくれるのが、コミュニケーションの力なのである。(中略)こころの安定をキャラに託そうとするなら、キャラの記述=相互確認を可能にしてくれる再帰的コミュニケーションの中に繰り返し身を投じ続けるほかはない。実際、それ以外に手段は無いのだ。ただコミュニケーションのみが、みずからのキャラ=再帰的同一性を維持してくれる

キャラは作り物である。自分の物になりきってない間は、常にメンテナンスが必要だ。つまり、常に発信し続け、相手に承認されるというプロセスを繰り返さないと維持できない。そのため、毎日毎日一生懸命自分が作ったキャラに沿った発信を続けることになる。

これは本来の意味での「自己承認欲求」とは全く別の話だと思うけどどうなんでしょう。「キャラ承認欲求」と「自己承認欲求」って本人の中では区別つかないのだろうけれど、傍から見るとだいぶ印象が違うもので、そのあたりが問題なんじゃないかしら。



キャラの獲得の効果とその代償

それは、偶然性と匿名性という、いわば流動性のきわみに身をさらしながら、かろうじて自意識の同一性と連続性をつなぎとめる、ほぼ唯一の手段だ。その意味でキャラの獲得は、仮の待避所としてつかの間の安心を与えてくれはする。(中略)自己愛にとって最も重要なものこそが、再帰的コミュニケーションによって維持される「自己同一性」である

というわけで、まぁキャラつくりをすると、生き易かったり、友達の輪を広げやすいといったメリットがあるようです。逆に言えば、そのくらいしないと、生き難くなったり、友達付き合いが困難になりがちなのが今の世の中ってことかもしれんですね。



しかし、その代償も決して小さいものではない、と。

①キャラ化は成長と成熟を阻害する

どんなキャラでも、その記述が常にコミュニケーションの中でなされる以上、キャラからの逸脱はほとんど本能的に忌避される。だから、一度自分のキャラが確定してしまったら、そこから「降りる」ことはほぼ不可能となる。

完璧な、すなわち誤解やノイズを含まないコミュニケーションは、完璧な相互理解をもたらすと同時に「そこで理解されてしまった自分」=キャラ への強い固着をもたらさずには置かない。この固着こそが、個人の変化と成長を妨げる当のものなのだ。

つまり、スタート地点で変なキャラ付けをすると、何か大きなきっかけがあって方向性の転換に成功でもしない限り、ずっとそのままになってしまう。初期のキャラ作りはとても大切だってことです。キャラには一定レベルまで来たら都合よく転職させてくれるダーマ神殿など存在しませんよ、と。


次の部分を読むと、上キャラ、こじらせキャラ、釣りキチキャラなどはずっとそのままなので、スルー推奨って気分になりますね。

自己否定的な自己愛も、おそらくここに由来する。コミュニケーションを通じて、たまたま否定的な自己イメージ(非モテなど)に固着してしまった個人は、否定的な自己イメージのリアリティを再確認することによってしか、自己愛を維持できなくなってしまう。周囲からネガティブなキャラ認定をされてしまったにもかかわらず、そうしたキャラを積極的に引き受け、演じているように見える個人が少なくないのはこのためである。不本意なキャラを引き受けるのは辛いことだ。しかし、そんなキャラでもひとたび失ってしまったら、大げさではなしに「この世界」に居場所はなくなる。それは、いやなキャラをあえて引き受けるよりも、はるかに恐ろしい事態なのだ。このとき、自傷や自己否定といった、いわば自分自身とのコミュニケーションもまた、キャラを確定するような再帰性をはらむ。

ハックルさんのはてな引退&ブロマガをスタートする宣言をした記事などにはこの話が詳しく載っている。ハックルさんはなんだかんだいって、機をつかんで変化するの上手だなと思う。はてなの人にとってはいまだにハックルさんはハックルさんなのだろうけれど、ブロマガにおいては、ちょっとした知識人・企画屋さん枠になってたりする。



*自分ははてなにおける初期キャラ設定を完全にミスったので、何とかしたい(涙)
正直言って、自分らしくない方向性にパラメーターを重視して振り分けた状態でスタートしたのでいつまでたってもネットにおける自分のキャラにしっくりこない。本当はただの萌え豚ですよ。今のキャラが全く嘘というわけじゃないし、自分にそういう面もあるのは確かなのだけれど、自分としては、なんだかちぐはぐな感じが付きまとってしまう。はてなで出しているキャラのせいで、どうにも色々自重してしまうこともあり、逆にどうでもいいことに執着してしまったり。そのせいか、ネットでびしっと意見を言い切るつもりになれない。そういう状態でストレスがたまり、我慢できなくなると定期的に我慢できなくなってブログ変えたり、IDごと放り投げたりするのだけれど結局うまく仕切りなおしが出来なくて、元の木阿弥。いつまでたっても、つまんないところでぐるぐる廻って停滞してる気分。まぁネットとリアルは完全に切り離しておき、リアル側での成長を、時々ネットにフィードバックすればいいだけなんだけれども。そのフィードバックをキャラが阻害しているような今の状況はほんとぶっ壊したい。