この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです。 ※記事を読まずにはてなスターを押して回る行為はお断りしております。

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人間の「悪意・汚さ・醜さ」を定期的に確認したくなることってありませんか?

久々に「悪意」の話になったので、約2年前の記事の再掲。久々に自分の過去のブログを読み返してみたら、今よりずっと内向的でポエミィな感じ。あんまり人に何かを伝えようという意思がない。多分この時は、自分の中でイメージできる読者って一人もいなかったんだと思う。でも、書いてる内容は、最近自分が書いてる記事より面白いと思った。なんだかなー。


「キレイな人」に人の悪意を教えたくなる救いがたい衝動について

………わかってないな
オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった
「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女のコに無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た快感
その点人間の醜い部分を見続けた仙水の反応は実に理想的だったな
割り切ることも見ぬふりもできずに ただ傷つき絶望していった
そしてその度強くなった(幽遊白書

サディスティックな愛情あるいは同一化欲求のような気持ち悪い感情。

はじめてこの漫画を読んだ当時はこの感情が理解できなかったけれども、今は少しわかる、気がする。
何のことかわからないという人はどうかそのままでいてください。「あるある」という人だけ続きをお読みください。




「キレイな人」への苛立ち

政美は悪意を教えたいのだ。
(中略)
「ようやく納得できた気がしたの。あ、私がチエちゃんちに思ってた、しっくり来ない感じ。
 そうだ、気持ち悪いって事を認めさせったかったんだって」
「本当はあんな家、絶対にごめんだけど、あの子のそういう無邪気さをいいって、かわいいって思う人もいるんだろうけど、
 私にとってはいちいち地雷を踏まれてる感じ。しかもピンポイントのど真ん中」

「すべての娘は、等しく自分の母親に傷つけられている」誰の言葉だったか。
傷つけられた娘。「傷つけられても反感を覚えない娘」に苛立つ娘が個々にもいる。

敵意あるいは防衛意識。


「キレイな人」は、異常である

誰もみな、そこに自分を見るから、チエミをほうっておけない。
誰よりいちばん、私がそうだ。
普通、普通、フツウ。
その枠を外れる異常。あなたの家は異常である。
だけど、その普通に正解はあるのか。それはあなたの願望が反映されていないだろうか。

嫉妬あるいは過剰適応。自分の過去・現在が必然のものであったと思いたい気持ち。



「キレイな人」は自分の過去を否定しているような気がする?

知りたくもなかったのに気づいてしまった…わかってしまったことがある。私があの二人を見てずっと不快だった本当の理由。私は 認めたくなかったのだ。シンジが受け入れなかったのは惣流アスカラングレーという「存在」ではなく私だったということを。知りたくなんかなかった。私達にこんな可能性があったなんて。こんな未来も有り得たなんて。「私」は何も、間違えてなかったなんて。
私は…どこで道を間違えてしまったのだろう。今の私にはもう思い出せないし、こんな姿に成り果ててしまった私はもう今更それに気付いた所でやり直すことなんてできない。
一体…どれ位の月日が流れたのだろう。この醜くも・・・美しい世界が生まれてから。 (Re-Take0)

多分いじめとかについて考える際には、こういう衝動を頭に入れておく必要がある。いろんな欲求が入り交じっているのだ。ここには書いてないけど、善意やら教育意欲(わからせたろう)みたいな「良い」とされる感情も混じっているのだろう。


「キレイな人」がもたらす不都合

「キレイな世界」を信じている人にわざわざ世の中がキレイではないことをあえて教えたくなるのはなんでだろう。どうせ放ってそのうちおいてもわかることなのに。人がキレイなもの、正しいことを信じていて、自分に何の不都合があるのだろう。

・・・多分、不都合はあるのだ。

人間は一人ひとり違うから近づけば近づくだけ、良い面(=共通する面、安心できる面)だけではないことがわかってくる。その時に、正論だけ、キレイゴトだけというのは非常に危険だ。

人は誰でも自分の中にある悪や弱さを誰かに受け止めて欲しい気持ちとか、キレイなだけじゃない自分を受け入れてもらいたいという欲求があると思う。徹底されたキレイゴトを現実としている人は己の存在そのものをを抑圧し、否定する存在に感じられる。並の暴力よりよほど恐ろしいのである。特に今みたいに、キレイゴトやら正論が溢れ、しかも力を持ちすぎている時代において、常日頃から抑圧を考えている人からすると、反発しか感じない。だから、抵抗する。その圧力を弱めようとする。

人は触れ合いのなかで、傷つけあい、否定し合う。それはお互いが理解する過程として必要なのだと思う。えてして、やりすぎてしまうのだけれど、それはふれあいというものについて、きちんと理解してないというかもっと言えば間違った「普通」「友達観」が広まっているからだろう。

普通じゃない、と断じられたチエミに教えたかった。どの普通にも、どの娘にも、正解はない。
(ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ)

もちろん、理解できないとか、自分と違うということをポジティブに消化して人間関係を豊かにできればいいな、とは思う。でもそんなのは理想論だとも思う。理解できないものは気持ち悪いし、違う人と一緒にいると安心できない。気に入らない。そうなるのはむしろ当然だ

まあ、ほとんどの人間は、なんだかんだいってキレイゴトをいっても自分を含めて考えるとそこまで理想を徹底している人はいない。だから分かり合う余地もある。自分の不完全さを省みることで、お互いの至らなさを許して受け入れ合う事ができる。人間関係なんか適当なものだ。 だが、それがいい。ああでなければいけないこうでなければいけないみたいな話は心底ウンザリである。

とすると、「キレイな人」を見た時にわざわざ悪意を伝えようとする衝動が生まれるのは、ただその人を愛でるだけでなく、相手と一緒にいたいとか、相手に自分を理解してもらいたいという気持ちをもつからなのかもしれない。人には悪意とか醜さを知って、受け入れてもらいたい。そうして、受け入れられる世界を広げて欲しい。あなたの世界に、自分のように汚れた人間でも受け入れられるスペースを作って欲しい。というような。



参考記事
ttp://d.hatena.ne.jp/kawango/20110618
ttp://d.hatena.ne.jp/kawango/20110619
ttp://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar9834
あと、この系統だと東野圭吾の「悪意」とか「モンテ・クリスト伯」、「ファントムオブザインフェルノ」のクラウディア編なんかはすごく面白いと思うのでお薦め。スタジオKIMIGABUCHIの「Re/Take」なんかだと、こうした精神の解決まで描かれていてとても好きです。

ついでに「琴浦さん」感想。
ttp://h.hatena.ne.jp/TM2502/243612943283473390



追加1

本当に恐ろしい悪意はというのは、明確な意志をもって行われる純然たる形の見えるキリッとしたものではなく、もっと輪郭の不明瞭で、それでいて根源から生じているような、それゆえに不特定多数の人間が無意識のうちに共有してしまうようなドロッとしたものだと思う。・・・うまく言えない。ドロっとかキリッとか謎の擬音語発生しててわけわからん。

追加2

私はフィクションにおいては教師が主役のマンガが苦手です(逆に現実の教師の教育実践録はすごい好きです)。私は教師が主役のマンガがとにかくとことん「苦手」で、暗殺教室すごい面白いのに素直に楽しめないくらい。特に「少年マガジン」の教師ものマンガは軒並み大嫌いです。今までまともに読んだのはあまり教師教師してない「ネギま!」くらいじゃないだろうかと思います。 食わず嫌いのせいで面白いはずなのに読んでない作品が多いのでもったいない。教師が主役のマンガって、なんとなく「生徒には憑き物がついててそれを浄化したらどの子も聖人みたいにまともになってすべての問題はなくなる」というような、昔から悪いことは狐憑きのせいやらなんやらにして、できるだけ「霊魂を恨んで人を恨まず」みたいにしたり工夫してた島国というか狭い村社会の素晴らしい知恵がどうのこうのすんません適当なこと言ってます。気持ち悪い話をするに違いないという刷り込みがあっていやそんなことないだろとわかってるけど読む前から手が震える。 

とりあえず今度「鈴木先生」だけは呼んでみたいと思ってます。

追加3

私はフィクションにおいては自分の正しさを確信してるような、前向きでまっすぐて生産性が高そうな人より、延々と自分の黒さとか醜さとかそういうのと悶々としながら向き合ってる生産性の低い人が好きで好きでたまらないです。