頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「1984年」 感想準備メモ3 堕落論

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二重思考

元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。

二重思考は、「規約に従順であろうとする」ことと、「己の本心」を等価とみなすならばすぐに発現する。つまり、「かくあるべしという自己言及」を本心で行いつつ、かつその「かくあるべしに反する己の自然の姿(本当の自分に類似)」を追求するとすぐに発現する。「意識高い系」や「青二才」は絶えず「自己言及」によって再帰的に自分のキャラを強固にせんとする一方で、己の本心の間に常に引き裂かれることにより容易に二重思考に陥る。 ここからさらに「うちらの世界」に話を突っ込めば面白そうだけれど自分がよくわからんくなるからやめる。


ビッグブラザー

少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦また巨大な独創を行っているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。何人が武士道を案出したか。之も亦歴史の独創、又は嗅覚であったであろう。歴史は常に人間を嗅ぎだしている。そして武士道は人性や本能に対する禁止条項である為に非人間的反人性的なものであるが、その人性や本能に対する洞察の結果である点に於ては全く人間的なものである

オブライエンは、意図的に「歴史」を自分の望む方向にコントロールしようとした。自然な歴史の大きなうねりと対決しようとした。そういう人物をオーウェルは演出しようとした。しかし、それすらも、歴史からしたら昔から繰り返している一部の動きに過ぎないのかもね。「神」やら「歴史」に挑戦しようとする人が、その「神」やら「歴史」という枠組みから抜け出すにはどうすればよいのか問題。


ゴールドスタインと憎悪週間

日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあった

現代ではネトウヨさんたちがこの形式を踏襲しているし、

我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ

私達も別の形でこれを踏襲している。


ウィンストン

私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても東京にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑つかれていたというだけであった

ウィンストンから見たプロレ

米人達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、爆撃直後の罹災者達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽さわやかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。

ウィンストンがみた願望で歪んだプロレの像。人間らしいイキイキとした姿が想像される。


オブライエンからみたプロレ

戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。

堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない

オブライエンからみたプロレ。どこまでも堕落しているが、それゆえにどうにも制御しようがない。
自らが恐怖によって思考を奪い、統治している党員は、非人間的な美しさを持つかもしれない。それに対して、プロレはどこまでも堕落しており醜いが、それゆえに人間である、みたいな



堕落論にあって1984年に存在しないもの

人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

それは終戦。つまり「人間が人間に戻る瞬間」のこと。
1984年は、「終わらない戦争」が何をもたらすか、という話でもあるわけで。
このあたりは「パンプキン・シザース」とかと比較してみたいところ。



堕落論最後の段落

ここは、安吾独自の美学であって、1984年とはリンクしないかもしれないし、
ジューリアさんあたりがここに関連するのかもしれないけれど、
正直ジューリアさんについてどう理解すれば良いのかよくわかってない。