頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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メモ。


「君は報われない幸せを知らない」の続き。

何か物事がうまくいかなかったら「運が悪かった」「相手が強かった」くらいに考えて、あまり自罰的にならないようにしたい

何事にも原因と結果があり、すべての行動に随伴性がある勘違いしていると、全ての結果に全てに責任が生じることになり、何一つ今を楽しむことが許されなくなる。それは辛いよね、というのが「君は報われない幸せを知らない」の話でした。

世の中には「報われなければならない、成果を出し続けなければいけない」そういう立場に置かれ続けると結果として、「成果がすべて」という考えに陥ることがある。 最近は偉い人じゃなくても、親や上司から成果しか評価してもらえないみたいなのが続いてそうなることもあるかもしれない。


さらに、自分の背負いきれる範囲を超えてしまう問題まで責任をすべて引き受けさせられ続けた場合が問題だ。常に自分の意思・行動に、過剰な随伴性が伴うことになる。 自分の一挙手一投足が、自分の意思を越えて、大きな影響を与えてしまう。こういう状況になると、人によっては禁欲と自律を重んじるようになる。また、世の中も当然のようにそれを求めてくる。

例えば、職業威信値の高い人達に対する「政治家・聖職者たるものかくあるべし」「影響力のある人は発言内容に気をつけよ」から、「受験生なんだから、目標の点数を超えるまで遊んだりしたら駄目でしょ」と、目的や役割に合わない心理・行動の価値を無視したものいいはしょっちゅう聞いたことがあるはず。


こういう状況では、人はただ結果のみを判断されるマシーンとなる。結果をだすための機能のみを評価される。本人のモチベーションや内面的問題を認識しなくなる。 その状況をまともに受け入れて、自分自身外部からの圧力を内面化しまうとどうなるか。


前記事のイズナはこういう状況に陥ってたわけだ。こういう時に「随伴性の縛り」=「自分が本気を出してさえいれば」「自分がもっと注意していれば、もっと真剣であれば、楽しみさえしなければ…」にともなう結果責任から解放してくれる存在というのは貴重だ。本来人間そんなに万能ではないので、思った通りに行かなくても仕方がない。「インシュアラー。うまくいくかどうかはその時になってみないとわからない。どうせわからない先の事を考えて今を台無しにしてはいけない。自分も相手にも寛容になるべし」そういう考え方には憧れる。



それでも、だんだん科学が発展して、人間組織もガチガチになってきて、なんでもかんでも制御できるという勘違いがはびこるとおかしなことになる。 そういう時に、本当は運が絡む要素だってあるはずなのに、すべて誰かに責任を帰属させようとする考え方が強くなる。 これはもうヤバい。 一部の「行き過ぎた精神論」はそうやって生まれる。 埋められないピースはやる気で埋めると本人が思うならまだしも、それを他者にもとめ、その無理やりの部分に責任まで押し付けるとか、それはもうただただ管理者が無能であるとしか言い様がない。






「何をやっても無駄だ」と思うと人は無気力になるので、まず背伸びしすぎないで出来るところから着実に積み重ねる経験を持ちたい

逆に、環境の制約などの問題で「どれだけ努力しても報われない」という状況が続いてしまう人がいる。こうなると、人は無気力になってしまう。 さらにニヒリズム、あるいはアノミー状態へと陥る人もいる。

これについて「最近の若者は」といっても逆効果だ。。格差からくる無気力感は構造的なものだ。一定数は自力でこの壁を乗り越えられるが、乗り越えられなかった残りのうち一部は確実にこの状態に落ち込んでしまう。 それを放置すると一部でネットスラムが形成される。


人は2つの条件で無気力になる。1つは「努力に対する随伴性が全くない状況」である。さらには、努力に対する随伴性は残っているが、それを得るための努力量が許容範囲を超えた場合である。格差問題を論じる時、1つめだけが問題になるが、マッチョな人は、2つ目の問題を意図的に無視したり、否定したりする。実は深刻なのは2つめの問題が無視されていることかもしれない。


とにかく、人がどう言おうが、「こういうことができなければ駄目だ。できてる人もいるんだからできない奴はクズだ」みたいな言説があっても、気にせず、まず自分ができるところから小さな成功体験を積み重ねるとかが必要なのかもしれない。