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この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。最近TED聴き始めました

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邪悪な人たち=サイコパス「ではない」

この本で描かれている人は「邪悪な人」ではあるが「サイコパス」ではない。
自分にとって邪悪な人をなんでもサイコパスと呼ばないように気をつけたい。


キーワード1  定常性・絶対性(絶えずそうすること)

行動や罪の大きさで邪悪な人間を定義できないとすると、この種の人たちをどう定義すればいいのだろうか。
その答えは、彼らの罪悪の定常性にある。
通常は隠微なものではあるが、彼らの破壊性は驚くほど一貫している。
これは、自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する、というのがこの「一線を越えた」人たちの特性だからである

人間は善悪で割り切れない存在であるゆえに、ある程度善い、ある程度悪い、は誰にでも有る。
だが、「邪悪な人」は「常に」「絶対に」「一貫して」とある問題行動をするという。



キーワード2 他者攻撃性とその目的

私は、悪とは
「精神的な成長を回避するために政治的な力を行使すること。
 すなわち、あからさまな、または隠された強圧をもって自分の意思を他人に押し付けることである」
と定義した。
言い換えるならば、邪悪な人間は、自分自身の欠陥を直視するかわりに他人を攻撃する。

ジョジョの「悪とは」の定義にも合致する。

  • 「悪」とは てめー自身のためだけに弱者を利用しふみつけるやつのことだ!!
  • 吐き気を催す邪悪とはッ! なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!!自分の利益だけのために利用する事だ…
  • マックィィーンについてはこちら参照 ttp://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20120319/1332199602

キーワード3  良心の欠如やメタ認知能力の欠如状態「ではない」こと

彼らの過ちは、彼らが生命を憎んでいることよりも、むしろ、自分自身の罪深い部分を憎んでいないというところにある。
自己嫌悪の欠如、自分自身にたいする不快感の欠如が、私が邪悪と呼んでいるもの、すなわち
他人をスケープゴートにする行動の根源に有る中核的罪であると考えられるがだとするならば、その原因はなんであろうか。
私が見るところでは、その原因が良心の欠如にあるとは考えられない

良心もしくは超自我をまったく欠いているように思われる人間を精神科医は精神病質者または社会病質者と呼んでいる。
この種の人たちは、悪の意識を欠いているがためにただ犯罪をおかすというだけでなくある種の無謀さをもって犯罪を犯すことが多い。
彼らの犯罪性には決まったパターンや意味といったものはあまり見られない。
他人をスケープゴートにするといった特徴も特に見られない。
精神病質者には良心が欠けているために、
自分自身の犯罪性をも含めて、心を煩わせたり、不安の対象となるものがほとんどないように見受けられる。
彼らは、刑務所の外にいようと中にいようと、ほとんど幸せであるかのように見える。

むしろその逆で、良心はしっかり持っているし、メタ認知能力は高い。
これらがないなら、良いことと悪いことの区別がつかないのだから、そもそも隠そうとしない。
常日頃からtwitterで失言をしまくってよくホッテントリしてる人がいたとしたら、その人は邪悪ではない。バカなだけだ。

道徳や周囲の反応を意識しつつ、それでも悪いことをするから邪悪なのだ。
この点において、良心を持たない「サイコパス」とは一線を画する。



キーワード4 粉飾(自己正当化)行為を頻繁に行っている

3で「良心の問題」を自覚しつつも悪い行為をする当然の帰結として、「粉飾」行為を行う。

しかしながら、私が邪悪と呼んでいる人たちにはこうしたことはまずあてはまらない。
完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、「道徳的清廉性」という外見を維持しようと絶えず務める。
彼らが心を煩わせることはまさにこれである。
彼らは、社会的規範というものに対して、また、他人が自分をどう思うかについては、鋭い感覚を持っている。
外向けには非の打ち所のない生活を彼らは送っている。
つまり、彼らには、善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。

「邪悪な人」は、積極的に自己正当化を行う。自分の行為にそもそも問題がなかっとにしようとする。
この「自己正当化のための他者攻撃性」が「モラルハラスメント」のスタートである。




キーワード5 「悪性のナルシシズム」の持ち主

邪悪性の基本的なもととなっているのは、罪悪や不完全性に対する意識の欠如ではなく
そうした意識に耐えようとしないことである。
彼らは自身の邪悪性を自覚していると同時にそうした自覚から逃れようと必死の努力をする。
邪悪性とは、罪の意識の欠如から生じるものではなく、罪の意識から逃れようとする気持ちから生じるものである。

これについて、この作品では更に詳しく説明しつつ「悪性のナルシシズム」という言葉で表現している。
いい加減、承認欲求や自己顕示欲という言葉では説明がつかないということだ。
大部分は「自己愛性人格障害」に回収される話であるが、一部それだけでは説明できないところがある。

邪悪な人たちと精神的に病んでいる普通の人との間の違いは、
邪悪な人たちがある特殊なタイプの苦痛から逃れようとするところにある。
邪悪な人たちは、一般的な意味での苦痛からの逃避者、つまり怠惰な人間というわけではない。
それどころか彼らは、ご立派な体面や世間体を獲得し維持するためには人並み以上に努力し、奮闘する傾向がある。
彼らに耐えることのできない特殊な苦痛とはただひとつ、
自分自身の良心の苦痛、自分自身の罪の深さや不完全性を認識することの苦痛である。

ブラック企業に「適応」出来る人は危ない。
彼らが生まれつき罪悪感がないサイコパスである可能性はそう高くない。
そういう人は、経営者にとっても制御しにくいからだ。
ブラック企業の経営者にとて最も便利なのは、悪いことをすることにためらいを感じつつも、
一生懸命自己正当化のために「社長のいう空っぽな理念」を信じる人のことだ。
こういう人は、自分が善い人であるために、建前を信じる。
そしてそれに従わないものがいたら積極的に攻撃するようになる。
「間接統治のために使われる有能な番犬・無法者」になる。
もちろん問題が起きた時は、真っ先に切り捨てられる存在である。

これは「サイコパス」ではない。サイコパスが存在するとすれば、その上の立場の人間である。


要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。
ところが、邪悪な人はそうはしない。
自分の罪悪感と自分の意思とが衝突した時には、撤退するのは常に罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意思である。
邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。

そして、良心に反して自分の意思を選んだ場合には「自己を正当化する理由」を強く強調するだろう。
たとえばそれが「社会人としての常識」か「会社の都合」か「お客様のため」になるかはランダムだ。
どれにも深い意味は無い。目的はあくまで「自己正当化」でしかないからだ。



キーワード6 自由意志、自己統制感覚への異常なこだわり

「俺が善いことをするとすれば、それは、それが善いことだからだ。
 しかし、俺が悪いことをするのは、それをしたいからに他ならない。
 だからおれは悪いことをする。それが俺の自由だからだ」

たとえば自分書いた記事に誤りや、他者を傷つける表現があったとする。
そしてどうしても批判が避けられないとき、「あえて」という言葉を使う。

俺は「あえて」こうしたのだといいはる。
これは「釣り」だ。トリックだ。そのほうが注目されるからやったのだ。
あえて「強い表現」「侮蔑的表現」を使ったのだ。そうしないと相手に伝わらないからそうしたのだ。
間違えたわけではない。俺が自分の意思で読者をためすためにやったのだ。

だからといって謝罪は不可避なわけだが、こういう風に逆ギレして
批判を受け入れることを拒否することが定常化している人は危ない。



程度の差こそあれ、「邪悪な人」因子は自分の中にも有る

これ以上細かくは引用しないけれど、要は常に自分を直視し続ける力がないことが邪悪のスタートラインなわけだ。
だとすると、当然私にもその因子は非常につよくあると自覚して気をつけるしか無い。

「あの人は邪悪だが俺は違う」などと胸を張って言えるほど私は立派な人間ではない。
他人を軽々しくサイコパス呼ばわりする無神経さからは遠ざかるようにしたい。

悪を直視できなければ、人間の悪をいやすことなど期待できない。
悪を直視するということは決して気持ちのよい光景ではない。
私の前著を気持ちのよい本だと言ってくれる人は多い。しかし、本書は気持ちのいい本ではない。
この本は、我々人間の暗部について、しかもわれわれ人間社会のまさに
最も暗い部分に属する人たち、つまりずばり私が邪悪だと判断した人たちについて主として語る本だからである。

私は、抽象的な悪の研究について語っているのでもなければ、生命および生気という価値から分離した抽象的な心理学について
語っているのでもない。病気を治そうという意図なしに病気を研究することはできない。
さもなくば、それはナチのやったことと同じものになってしまう。
悪の心理学は、治療のための心理学でなければならない。

心理療法というのは正しい道で、安易な道ではありません。

悪を治療とする試みは、心理的、精神的に大きな力を持っている人間のみが行うべきことである。

ということらしいです。

こういう人を見かけたら、プロに任せるしか無い。

しかもこの本では、精神科医である著者ですら、邪悪な人の治療に関してはまだまだ無力・無能であるとしている。