頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

たかが割り勘の話から社会論にまで飛躍する必要ないよね

・「特定のパターンに収束しなくても社会が維持できるのが豊かさ」みたいな話についておもったこと。

・社会について語ること


http://togetter.com/li/268455
近代的自我の確立が叫ばれ、
個人の尊重が何よりも優先される場合、
こういう意見が強くなる。

「男だからおごるっていう人は結婚してもあまり家事を手伝わないタイプで男でも割り勘っていう人は家事に協力的なんじゃないかな」
「メンタリティー的にはあるかも」
「そうじゃないのも多いけど」
「ですねー。ワリカン出し家事もしないって男と、おごってもらうし家事も分担してよって女と」

ttp://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar598269

いやまったく、「男性が戦い、女子供は守られる」というひとつのパターンしか許されないような社会に比べ、現代日本は何と素晴らしいのでしょうか!


一方でそれは既存の共同体の恩恵を受けながら、
共同体からの制約は一切拒否するという姿勢につながりかねない。

https://cakes.mu/posts/6387?r=20140812m
"派生して出てくる問題が、個人を標準とするあまり、本当に家族に問題がある場合でも免責しちゃうことがあるってとこなんですよね。家族を含めた外的要因を免責する傾向がいきすぎると、自己啓発は別の問題をはらんでしまう"

"アドラー心理学は「家族に問題があったとしても、それは自分とは関係ないから、切り捨てろ」みたいな話ですもんね。" "それが簡単にできれば幸せですけどね(笑)" 

もちろんそのために自ら「あたらしい共同体」を作れる人はいい。それが既存のものと代替可能で、継続可能であればいい。

でも実際は、「ただ乗り」志向、「下流」志向の人が目立つと思う。


何が云いたいのか? つまり、ぼくは「成人男性が戦い、女子供は守られる」という形こそが唯一の政治的に正しい形式だとは考えないということです。それどころか、そもそも「唯一の政治的に正しい関係」なるものが存在し、その反対の「許されるべきではない間違えた関係」も存在する、という認識そのものを認めない。

(中略)
つまり、成人男性が少女に命令する形式があっても良いし、成人女性が少年に命令する形式があってもいい。あるいは少女が男性に命令する形式があってもかまわない。さまざまな関係性が野放図に繁栄している状況こそが最も倫理的なのであって、あるひとつの作品、ひとつの形式、ひとつの関係性を取り上げて「これは政治的に間違えている」ということは、じっさいにはむしろ差別的言説であるかもしれない

艦これ』はたしかにそれ単体を見ればひとつの倒錯した人間関係を推奨しているように見えなくもない。しかし、だからその倒錯を見直そう、ということは間違えている。もっともっと倒錯させつづけ、ありとあらゆる倒錯があたりまえな状況を作るべきなのです。それが最もポリティカル・コレクトな結論だと思います。

こういう考え、嫌いじゃないんだ。
むしろ、ほれぼれするほどうつくしいとは思う。
ただ、わたしはどうしてもこういう考え方が得意じゃない。

「普通じゃないかもしれないけど、この扉の無効に別の世界が広がってますよ―ということがつたわったらいいな。こっちの方向へ行け!というのではなく、いろんな方向をさがすきっかけの一つになったらいいな。」  

こういう姿勢はすごくいいな。えっと、私はブログを、「書き手」単位で見ることが多くて。 そうすると、「書き手」の主張はたいがい「こっちの方向へ行け!」か「○○は間違いだ」だから、反発を感じてしまうわけです。 でも、ブログ全体で考えると「多様な意見の一つ」として見れるのかな、と。読み手としてだけではなく書き手としても、同じように考えてたから、「こっちの方向へ行け!」って明言することをすごく避けたがってるところがあって。 だって責任とれないし。 でも配しなくても読み手はたくさんブログ記事読んで、自分の記事は「多様な意見の一つ」と見てくれるのかな、とか。
いやマジで私は「記事単位」、「書き手単位」だったらどんな書き手の人の話でもそこそこ丁寧に読めるつもりです。が、そういう狭い点でしかモノをみれないようじゃアカンだろ、と。 
そんなこともわからないで今までずっとブログを書いて、読んで、してきたわけで。 良い意味でもっと無責任になれるといいなと思った。
我ながら自意識過剰すぎだったべ。 

ワリカン一つでも男女論社会論はできるけど必要なくない?

いちおう両方考えてはいるけれど、
個人的にはあんまり近代的自我とか個人尊重の時代を
過剰に主張する言説が好きではない。
そんなに自己主張を他人に押しつけたいとかおもわないから。

内心の自由こそ尊重してほしいとはおもうものの、
それ以上に、ありとあらゆる表現の自由やら多様性を主張して
「それこそが歴史の必然だ、マニフェストデスティニーだ」
みたいに言う人ってすごい苦手。

だって、そういう人に限って、自分が悪口言われるの大嫌いだしね。
みんなそれを避けるためにある程度制限かけあってるとおもうのに。

概念では自由を声高に叫ぶ人ほど
実コミュニケーションにおいては
単なるすげえわがままって人であることが多い。
というか、そうでなかったことがほとんどない。

昔はこういう考えに傾倒しそうになったことあるけれど、
ぶっちゃけその概念を現実的に運用できるほど
人間はまだ豊かじゃないというのが現状のわたしの感想。

こういうのは、理想としては美しいけれど、
結局ネット弁慶の空想実験にすぎず、
せいぜい内輪で自己満足をするしかない。


そこまで悟った上で、それでもいいから
社会的にそれが正しいんだとか声高にわめくんじゃなくて、
自分のために、自分の責任で、自己満足のために
内輪のコミュニティを持てれば、
そこで思う存分思考の羽をのばせれば、
そこで個として尊重されれば、今の私は満足だなぁ。


そこから「実践」したいという意欲はどうやって生まれるのだろう。