頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「参加しただけで勝ち」も「人生に無駄なものなどない」も大嘘

ただし、若い時は、「参加しただけで勝ち」「人生に無駄なものなどない」くらいに思っていても悪くはないと思う。
細かいことはきにせず、どんどん挑戦してもいいと思う。
それで失敗して笑いものになるとしても自分がそれを望むなら挑戦の機会は(大人と比べると)多い。


これに対し、大人としては、どうすべきか。
無責任にこの言葉で若者を煽るのではなく、かといってしめつけたり戒めるのでもなく、
子供が積極的に挑戦しても転落したり、取り返しの付かない致命傷を負わないよう、
教育によって知恵を、制度や環境作りによってセーフティネットを若者に提供できないものだろうか。


これが成り立つには、
・お互いの関係が良好であること。特に大人側が若者に期待できること
・大人側に、精神的・経済的な余裕があること
・共同体の感覚

が必要になるだろう。すべてが崩壊している今、大人と子供の関係はどうなっていくんだろうね。
昔がよかったと言うつもりはまったくないが、今後どういう形が必要なのかね。


☓参加しただけで勝ち  ○参加しなければ、勝つチャンスはない

正確には
「参加したら負けて恥をかいてボロボロに傷つくリスクがあるがそのリスクを恐れずに取らなければ道は開けない。」

林修「努力は裏切らないっていう言葉は不正確だ」 http://earth-words.org/archives/6569

努力は裏切らないっていう言葉は不正確だ。
正しい場所で、正しい方向で、十分な量なされた努力は裏切らない。

失うものは少なく、参加することで得られるものは大きい。
たとえ大切なモノを失ったとしても、まだ取り返しがつきやすい。
そういう場所を選んで戦えれば、参加しただけでもえるものがあるし、無駄になることはない。

上昇相場なら、とりあえず参加して何かをホールドしておけばよい。
だが、下落相場で同じことをやっていたら、地獄の苦しみと負債しか残らない。
ホワイト企業なら、とりあえず入社して、そこにしがみついているのもひとつの手だ。
だが、ブラック企業に参加したらいろいろ大切なモノを失って取り返しがつかない可能性がある。



上記の言い分が常に成り立つのは、
「自分の意思だけでコントロールできる」アマチュアリズムのさらにごく一部の世界だ。気をつけたい。



☓ 人生に無駄なものなどない ○人生のほとんどは無駄。だが無駄にしないようにすることはできる

個人的には「人生の殆どは無駄だが、それもまたよし。それ自体は良いことでも悪いことではない」を前提としたい。

私は「人生にムダなことなんてない」という言葉はあんまりしっくりこないな、と思います。たぶんスラムダンクで三井くんのつぶやきを見たことがあるからでしょう。

「人生にムダなことなんてない」とよく言いますが、 それは自己啓発本の類いが大好きな人を喜ばせるための言葉であって、実際には、結構ムダだらけです。
ムダなことが後々に活きることはたまにあるけど、実際にはもっと多くのムダがムダのまま流れていきムダのまま消えていきます。
そのムダがムダにならないようにするのが、人間の知恵であり何も考えずにフツーにこなしてしまう行為は、何の蓄積もないムダに近いものになってしまうのです。 意味を高めず、何の蓄積もしないことのほうが、よっぽどムダだと考えるわけです。
(中略)
自分の日常生活や仕事の中で「何の蓄積もないまま、ただ続けているだけの行為」「ただその時点で意味のある行為」に対して、今後も別の意味が蓄積されていくようにするには、どのような工夫をすればいいかを考えてみると人生はもっと楽しくなります。

これはこれで別の自己啓発だけど、まだ「人生に無駄なことなんて無い」と言い張るよりはずっと誠実だと思うんですよ。

「ムダはあるけどそれでもいいと受け入れる」か「ムダが嫌いなので、ムダにならないように生きよう」とかんがえるべきだと思います。



私の人生ムダしかないといってもいいくらいムダだらけです。「そのときにしか意味のない、刹那的な行為」が大半で、うまいこと蓄積できている気がしません。今までの人生を振り返ってみて、ジョブズの言うように、個々の点を線で結べるかと考えたとき、私の経験はあまりに刹那的な行為すぎたせいか、後から振り返ることがそもそもできなくなっていることが多いです。
つまり、「ムダにならない経験」というのは、ある程度集中的にやって、やりきったことに限るのだと思います。そうしないと、「線」のもとになる「点」にすらならないとは思います。

私自身は別にムダがあっても、ムダだらけでも、別にいいとおもってます。そもそもムダを悪のように考えると、私の人生そのものを否定しなくてはいけなくなってしまいます。
むしろ、ムダなことだらけでも、そのムダなことが楽しいので、なんとか生ける気がします。だから、後から振り返ってみたら、ムダだらけで、有意義とは言えなくても、なんかそれはそれでいいんじゃないかなと。
ただ、ムダを嫌うのであれば、「人生にムダなことなんてない」という言葉だけをお題目のように唱えるのではなく、その時々がムダにならないように頭を使っていかなくてはいけないし、一つ一つの取り組みを丁寧にやりきって、きちんと「経験」と言えるものにしていかなければいけないのかな、とは思いました。

いいか、お前の生活の中の一つ一つはすべて世界とつながってるんだ。ホントだぞ。だから一つ一つ丁寧に生きろ。絶対返ってくるから。 




余談

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また、クーベルタン男爵はこの席で「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」とも語っているが、こちらは本人が考え出したセリフである。
「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」実はこの言葉は彼の考え出したものではない。この言葉は聖公会ペンシルベニア大主教であるエセルバート・タルボット(Ethelbert Talbot)が1908年のロンドンオリンピックの際にアメリカの選手たちに対して語った言葉である。1908年のロンドン大会が開催された当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲となっており、アメリカの選手団はロンドンに来てから色々な嫌がらせを受けた。それで気の滅入ってしまったアメリカ選手団が気分転換にセント・ポール大聖堂聖餐式に出かけたところ、この大聖堂でタルボット大主教から上記のセリフの入った説教を受けて、大いに勇気付けられた。この時の出来事とセリフが伝わり、感銘を受けた彼が各国のオリンピック関係者を招いての晩餐会の席上でのスピーチで引用して演説したところ、たちまちこのセリフが“クーベルタン男爵の演説”として有名になり世界に広まってしまった
また、クーベルタン男爵はこの席で「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」とも語っているが、こちらは本人が考え出したセリフである。

ちなみにこの「参加することに意義がある」を引用するもしくはそれと同様の言葉を高らかに語る人間は、クーベルタンが「アマチュアリズム」の提唱者でもあることも留意しておいた方がいい。

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オリンピック運動の創始者であるピエール・ド・クーベルタンが、その運動の理念として提唱した思想で、「オリンピックの出場者は、スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方。
オリンピック運動の創始者であるピエール・ド・クーベルタンが、その運動の理念として提唱した思想で、「オリンピックの出場者は、スポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方。現在は、オリンピック憲章からは「アマチュア(リズム)」という単語は削除されている。世界的なスポーツ界の流れとしても事実上存在しないに等しい。