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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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自分の美学(キャラ)には、自分以外誰も思い入れなんてしていない

なんとなく思うところあって「Papa told me」読み返してみたりとか。


以下「EPISODE 138 ティードレス」より。

「もろもろのアクシデントによって、盤石と思えていた自分のライフスタイルに少し自信が持てなくなってきたんです」
「あなたのライフスタイルーーーいつもただ軽く楽しくすべての物事を心地よい感情だけで連なりつつヒラヒラフワフワ生きるという」
「よくご存知で…」
「まあねっ」
「そういうのが僕は好きだし、それができる環境にもあったのでずっと続けるつもりだったんだけど。
 このままいったらただ一時的に面白がられ、利用され、忘れられていく存在なのかなって
 柄にもなく、ちょっと不安で……」
「あなたはちょっと不安くらいのほうが健全。いつもがパッパラしすぎ」
「ひどいな、僕だってこう見えても悲しいトラウマ抱えてる悩める青年なんですよ」
「自分からイソイソ理由として引っ張りだして来るものをトラウマとは言いませんわ」
「やっぱり彼女がいつも言うように、頑張るべきなのかな。
 平地で散歩するだけじゃなくて、高い山を設定して超常を目指す!べきなのかなー
 なんかそういうベタな感情って、僕の美学にあわなくて気恥ずかしいんだけど」
平気平気 誰もあなたの美学に思い入れしてないから
 心置きなく転向して 高いとこを目指して、尊敬される人になっちゃって!


スタイル、美学、個性、キャラ、プライド。
なんといっても良いけれど。
こだわっているのは自分だけ。
自分が変わろうと思えばいつでも変わればいい。
他人を言い訳には出来ない。
自分がそれを守り、続けたいなら続ければいいし、
変えたいと思うなら変えればいい。
変わらなければならないと思ったなら、変わらないといけない。




多分、今の若い人には、この話はかなり抵抗があると思う。
斎藤環「キャラ化する若者たち」読んで、
キャラに依存したコミュニケーション以外が出来ない人が増えてきて、
友達というのもキャラというお約束を共有できる程度の関係でしかないとしたら、
キャラを変えることは、社会的に致命傷のように感じる人もいると思う。




それでもなお、今でもこの考え方は、大事なんだと思う。
キャラやスタイルに責任をとれるのは自分だけであって、
他の人は、期待はしてくれるし、ちょっとした報酬はくれるかもしれないけれど
それ以上に何かをしてくれるわけじゃない。
維持・成長・発展、すべては自分のためだし、自分にしか出来ないくらいの認識で。





自分のキャラも美学も、固定不変のものではないし、それ以上に大切なモノがあるなら変えられるかもしれない。
自分にとって最も大切なモノのためなら、今までのこだわりやキャラを簡単に投げ捨てられるような、
そういう人こそが、エゴイストって呼ぶに値する人たちなんじゃないかと思う。
自分がもっとエゴイストになれば、逆にキャラに固執する必要がなくなるかもしれない。

「EPISODE143 ウェンズディ・モーニング」における母親は、それができる強い人だった。
大切なあるもののために、自分の作家としての未来も自分のプライベートも切り売りすることを厭わない。
周りからは道化じみた人生のように笑われても、本人は至って冷静な判断の結果として自分の意思でそれをやりぬいている。
同じ切り売りでも、人生のショートカットとして他人を踏み台にしようとする(EPISODE 137)のとは違い、
笑いものになっていいのは自分だけ。他人を傷つけないように注意する気遣いを持っている。

「この人の書いてるものって、本当に実生活そのものらしいですよ
 読んでる側としては興味をひかれるし、面白いけど
 知らずに関わった人は、災難としか言い様が無いですね。
 失敗も裏切りも全部さらけ出してしまうんだから」
「そうだね、確かに。絶対に真似は出来ない。
 でも心の何処かで憧れてる部分はあるな。こういう生き方に」

考えなしのなんちゃってエゴイストはただのバカだからキライだけれど、
思慮深く、それでいてエゴイストに成れる人は、尊敬に値する人たちかもしれない。
そんな簡単に区別できるようなものではないかもしれないけれど。


久々に「Papa told me」読み返してみて、
この作品に出てくる人物たちは、「エゴイスト」ばかりなのだけれど、格好いいなと思った。

わたしはね わたしのために かわいいの