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「会社は成果にお金を払う組織」という時の「成果」とは何か

株価の動きとか見てて思うんですが、株価が伸びる企業って今の業績がよかったことよりも「将来の収益力」を評価されて買われるんですよね。

多分、新卒採用の時も同じような観点で見てると思います。ポテンシャル採用とかいうくらいだから。

商売で顧客を獲得するときも最近はライフタイムバリューなんて言葉がさかんに言われるようになってきましたよね。客相手でも、長期的な利益を大事にするようになってきてる。そのために、数字だけじゃない付き合いを大事にしろとかみんな言ってる。

こういう場合の「成果」は長期的関係をもとにした視野の長いものだと思います。



ところが、なぜか会社の中に入ると「成果」の意味が変わるような気がします。




従業員の扱いだけが、そういう長期的視野からかけはなれてる例が増えてきてないか、と。ひどい場合は「将来性」がまったく考慮されなくなり「今期成績達成できるかどうか」ばかりが意識されてないことさえあるな、と。

また時間軸だけでなく「成果」を図る指標も非常にせまくなっていて、営業や製造の数字以外がほとんど評価されなくなってきてる気がする。評価の幅が短いし狭い。縦にも横にも視野が狭い。 それってまずいんじゃないかな、と。「成果」をあげられる人が一握りになり、社内で椅子取りゲームになる。社内で争いが起きる気がします。

極端にひどいケースを考えてみるとこんな感じかな。

・数字につながる部分以外で頑張らなくなる人が増えてくる。「その他の仕事」の価値が下がり、誰もやりたがらなくなる。

・仕事に明確な貴賎の差が生じる。その結果として仕事の取り合いになり、社内政治やコミュ力競争が、平社員のときから発生するようになる。そして「貧しい仕事」は、社内での権力やコミュ力での敗者に押し付けられるようになる。

・新入社員はまずコミュ力をもって「数字につながる良い仕事」を獲得できなければ詰む。

・そうやって、本来はポテンシャルがあって、それを評価されて入社した人でも大半が潰れていくことになる。



こう書くと、もともと仕事ってそういうもんだろうが、っていう人もいると思う。特にある程度活躍するようになってきた人は、仕事の報酬は仕事だってのは明確に意識されてると思う。でも、新入社員いきなりからそれってどうなんやろね、と。コミュ力以外のところに持ち味がある人はどうなるんやろうね、と。


実際この短期的な数字を追求した結果が、自爆営業であったりするのかな、と。
http://yamayoshi.hatenablog.com/entry/2014/10/02/185653
もう完全に人を大事にする気全然無いですよね。長期的に働いてもらいたいとおもってたらこういうことしないじゃないですか。こういうの、ほんとにどうなってるんだろうかね。







本来、日本企業は「成果」なんかには給料を払っていなかったと思う。特にメンバーシップ型企業では、将来性に投資していたはずだと思うそれにしてもどうしてこんなに人を大切にしなくなってしまったんだろう。

そもそも終身雇用・メンバーシップ型の働き方は、社会福祉の面を除いても「最初のうちはどんだけ頑張っても給与以下の成果しか出せないやつが多いけど、ずっと会社で働いて成長してくれれば、どこかの段階で給与をあげてもそれ以上の働きをしてくれるようになって、それでようやく元が取れる」ことを前提として会社の利益になるモデルでしたよね。そういう意味で成果って「長期的視点」の元で考えられていたと思います。少なくとも今よりは。そういう長期的視点で見たら、短期的な数字を追求するより、人を大事に育てたほうがいいよね、という話になっていたと思います。

今はそうじゃないですよね。「老害」問題ってことばがあるように、長期的視点で人を大事にしても元が取れないどころかマイナスになる可能性が高くなってきてる。だったら、人を長期的に大事にするじゃなくて、即戦力をもとめていくか、使えないにしても「貧しい仕事」ばっかりわりあてて使い潰していくのが合理的ってことになってるのかな。

*1




id:TM2501さんがこのようなツイートをされているけれど、

私自身は「会社は」成果にお金を払う組織であってはいけないと思うんです。 そこを一対一で対応させたらまずいと思う。(ノマドフリーランスならいいと思います)



何がまずいかってほんとに「成果」というものはいろんなかたちがあるとおもうからです。もちろん最終的、全体的には「数字」になるんでしょう。経営者がそれに対して責任をとり、成果報酬を得るというのは大事だと思う。でも、それを現場で考えると話が違うだろう、と。

現場では数字を生み出すために、数字以外の取り組みがたくさんあって、それに対する「成果」というものがあると思う。その取組には短期的なものから長期的なものまでたくさんあると思う。そういうものを「短期的に」「狭く」一対一で成果としてとらえて、それにいちいち対応した形で給与を払うなんて難しいと思う。それは逆に莫大な手間がかかってしまって現実的でない。

だからといって、一部の指標に絞って「大体こんなもんだろ」とやってしまうと、学校の勉強と同じように「評価されやすいものが得意な人」だけが抜きん出て、それに向いてない人は不当な扱いを受けることになるんちゃうかな、と。


実際現場では、人物評価とか学習力とか、いろんな形で評価しようと取り組んでますよね。「コンピテンシー評価」が主体になってきてますよね。

だから「成果に対して」お金を払うんだったら、長期的視野が必要だと思うし、短期的に評価していくというなら、将来性とか勤務態度のような曖昧な基準にしたほうが良いと思う。 そのうえで、成果の達成はマネジメントによって促進していけばいいと思う。 「成果」と「ノルマ」の区別さえされていない状態で「会社は成果にお金を払う組織」なんて言葉はとても応援できないなぁ。





余談。
今って本来マネジメントの責任を平社員に押し付けるのが当然許される、という風潮ですよね。ノルマの未達は余程のことがない限りマネジメントの責任とすべきで、マネジメントの指示にしたがって作業をすることが要求される平社員が無限に責任を追求されるのは頭おかしい。そうやって平社員にも数字責任を背負わせて、結局根性で頑張って数字を出すみたいなスタイルが一般的になってますけど、それやってたらいつまでたってもミドルマネジメント層が成長しないと思うんだよね。 日本は30年前の方がミドルマネジメント層が強く、ここが日本の強みだとか言われてましたけど、そのあたりってどういう仕組だったのか勉強しときたいな、と。

*1:私は「老害」については個人の責任より圧倒的に時代の要因が大きいとおもっています。自分が団塊あるいはそれに親しい時代に生まれた時、どれだけ心がけてもある程度「老害」にならざるを得なかったと思っています。 だからこれを抜きに老害をかたるくせに、自分がパフォーマンスを発揮できないことは時代のせいにするアンフェアな言説は大嫌いです。 時代の変化のスピードがやたら早くなってきたり、就職氷河期時代の世代の断層などいろんな大きな理由があって、変化への対応が遅い人は高い給与以下の働きしかできなくなったり、事業そのものが時代遅れになったものの転身が難しく取り残された状態になったり、マネジメントが求められる時代にマネジメントについての教育をうけていなかったりあるいは過去の教育指導経験をそのまま現在でやろうとしたり、コミュニケーションが求められる時代に若手とのコミュニケーションを嫌って自分の常識を押し付けしたりして、若い人の成長や昇格を阻害するマイナス効果まで発揮しているとか散々ないわれようですが、じゃあ自分が同じ時代に生まれたら全部に対応できたのか、と。常に成功体験をすてて新しい変化にコミットし続けられたのかと。難しくないですか?「年長者が成果に対して給与貰いすぎで、その分若者の給与低すぎ!」はあるかもしれないので、調整は必要だと思いますけど、それと「老害」叩きは区別したいです