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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「その人」にとってはどちらでも同じことである

その人にとってその話題は、何重もの壁を隔てた、自分にはそれに関わり手触りを感じることが出来ない自分に影響を及ぼさない世界の話である。本当は存在したとしてもその壁が壊されて、巨人が襲いかかってくるまで、虚構となにも変わらない「遠い話題」である

「遠い話題」に関しては、事実であろうが間違いであろうがその人には同じことである。
そして、同じことならば、その人は自分が気持ち良い方を選んで、そちらを認識しようとする。

そういう状態の人に、事実をおしえても、間違いを指摘しても意味が無い。
「事実を正しく認識することのインセンティブ」自体が存在しないのだ。
それよりも、その人には事実と反したことを書いてでも自分のフォロワーからふぁぼをもらうことのほうが大事なのだ。


どっちでもいいからこそ、どっちを選ぶかというところにその人があらわれるかもしれない。自分にとって切実な問題で真摯な反応をするのは、いっちゃなんだけどそれはまぁ普通というかトートロジーに近い気がする。自分にとって切実な問題でも真摯に行動できないとなると、ちょっと体調や精神状態に不調があるかも知れないとかそういう話だと思う。
これに対し、「遠い話題」に対して、どういう反応をするかというのは、どうでもいいからこそ、その人の普段の態度とかその人の世界認識がみえる・・・かもしれない。

ただ、ほんとにどうでもいいこともあるから、どこまで意識するのかめんどくさいよね。




たとえば、私はゴールドマン・サックスに就職したりとか国家官僚になれる見込みは今からだと皆無である。違う世界の話である。たとえば、私はもはや高校生に戻ってあれこれすることは物理的に不可能である。どーしよーもない過去の話である。そこまでいかなくとも、友達の友達の話とか、テレビの向こうの人の話とかいろいろ自分から遠い話題には事欠かない。というか99.99999%はそう。


こういう時にゴールドマン・サックスの初任給がどうとかボーナスがどうとか、官僚の中の競争がどうとかそういう話は、せいぜい妄想して娯楽のタネにするくらいしかない。事実がどうであれ、自分にはまったく関係がないと感じてしまう。そういう時に、とにかく面白おかしくゴシップっぽく話を盛りまくるか、それでも、事実を確認して、間違いはよくない、と考えるかは、その反応の違いを決めるのはなんだろうね。

(この「遠い話題」に関する態度については、アドラーの「目的論」で考えていいと思う)



ただ、正社員として働くことが難しいとなった後で、自分と関係なくなったからといって、全ての会社員を社畜呼ばわりしたり、なんでもかんでもブラック企業ってことにしたりとかいうのはちょっと雑すぎるしまじめに話をしてる人がいたら迷惑なので、せめて小声でやって欲しいかな、と。


私は遠い世界に対しても、ある程度誠実に向き合える人のほうが好きかな。というか「遠い話題」になればなるほど強気になったり声がでかくなる人って、なんか生理的に厳しい。遠ければなんでもかんでも適当に発言していいと思ったり、言ったことが間違ってたりした時にも全く問題を感じない人って怖いなと。その人が、たとえ自分に近い話題でどれだけ真摯なことを言ってても評価は割り引いて考えてしまう

そういう意味では、人は何を言うかより、何を言うことを我慢したか、も見られてるとかんがえるべきか。もっとも、あんまりなんでも事実事実いいすぎると、堅苦しくてやってられんけどね。

今のネットって「何を言っても自由」だし「発言のコストがすごく低い」という建前があるからこそ、どうでもいいことでも発言できるわけだけど、そのどうでもいいことについて発現する時にちょっと気をつけようかな、という程度の話です