この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。最近TED聴き始めました

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「月刊少女野崎くん」の後で「オオカミ少女と黒王子」を観るといろいろ捗る

「どうせ、恋愛しようしようって息巻いてたんだろ?そんな状態の恋なんて、たいがい思い込みなんだよ。そんなの、恋なんていうかよ。凹むだけ無駄だっツーの」

「何が目的だよ、恩でも売る気か?」
「違う。あのね!弱ってる時は無条件で人に甘えなきゃダメなの!格好わるいとかそんなプライド一度全部捨ててさ!ちゃんと人の優しさをお腹にためて、そうでないとあんたみたいなひねくれ人間の出来上がり。…まぁキョウヤくんみたいな人には難易度高いかもしれないけどさ、私にくらいには気を許してもいいと思うよ?犬なんだからさ」
「…自分で犬って言ってりゃ世話ないな」「ワン!」

以前だったらこの作品絶対楽しめなかったと思う。

でも、「月刊少女野崎くん」を経由したお陰でか、言語化は出来ないけれどこの作品の面白さがちょっとわかる気がして嬉しい。やや楽しみ方がメタ的になってるかもしれんけど。

最終的には「君に届け」を面白いと思えるレベルになれたらとは思うけど、自分的にあの作品ハードル高すぎる。


「俺の彼女と幼馴染みが修羅場すぎる」の男女逆転Ver……でもないか。基本的に男子向けラノベとかマンガばっかり読んでるせいか、いつもと感覚違いすぎて笑える。


「俺修羅」の説明は省略するけど、とにかく「俺修羅」と違って主人公に全く感情移入できない

この作品の場合「作り話」をするのは女の子の側だし、その動機も「友達に合わせて見えはって話盛りすぎた」からだし、二人の関係が共犯関係というよりは完全に女の子が男の子にコントロールされてる。全く対等な感じがない。どっちかというと「きみはペット」の男女逆転Verだねこれ。

後から「惚れさせる」ことで逆転させる、みたいな感じナノカナー。とにかく「恋愛」には憧れてるけど「恋愛モード」にはなってない、男に惚れてないって状態が大事なんかな。「花より男子」みたいな感じかなと。こういう作品って割りとメジャーなのかな。



でも王道の恋愛からズレた作品は面白い。「恋に憧れる女の子」なのに「恋愛とかあほらしー」って思ってる男の人とセットになることで「恋愛じゃない男女関係」が展開されていくって構図は、こういうの詳しくない私でも面白い。それがどこまで可能なんだろう、って話なら私でも楽しめるしね。



感覚の違いというとわかりにくいかもしれないので別の言葉でいうと「キャラがまったくしっくりこない」ということだ。

キャラ結構濃い目に作られてるはずなのだ。「腹黒王子」とか「ギャルっぽい女友達」とか。なのに、全然グッとくる子がいない。「わかりやすい」とは思うけど全然ツボにはまらない感じだ。どのキャラもまず「なんだこいつら?どこの星の住人?」って感じ。

いきなりイケメン風優男に声をかけられて、特に脈絡なくデートに誘われたのにOKする主人公の女の子マジキチかと思った。どう考えてもこの優男、黒皇子との関係で裏があるだろって思うのに、全く警戒しないの意味わからん。あっさり嘘をばらすし。ちょっと頭弱すぎて心配になる。


一番最初に理解できたのは、モブキャラの女子たちののクズさだった。2話で王子のファンに呼び出し食らってシメられてるシーンとか見てて「さばげぶ!」を思い出した。あ、こういうところは男向けラノベでもこういう少女漫画でも同じなんだ!と旅先で見慣れたものを見れた気分になって嬉しくなった





昔は少女漫画読んでたし、きょうだいの影響で「りぼん」とか読んでたし、柊あおいとか椎名あゆみとか好きだったし、今でも時々は読む。「暁のヨナ」とか「キスよりも早く」とか「神様はじめました」とかは面白かった。「会長はメイド様」とか「スペシャル・A」とか「妖狐SS」とかはなんとなく楽しめるな―くらいに思ったけど、この作品は絶対に以前だったら「よくわからんなー」て思ってた気がする。

黒執事」の面白さは全然わからなくて悔しい思いしたし、「アオハライド」は超つまんねーって思ってしまった。この作品も同じ時期に読んだら絶対に「面白く無いな―よくわからんなー」だけで終わってたと思う。そういうのがわかるようになるのってちょっと嬉しい。



より多様性の獲得へ−日常系から完全に無菌な状態(=男性の感情移入視点が存在しない)へ至り、そこからゆり的な微エロへ - 物語三昧〜できればより深く物語を楽しむために

女の子に感情移入することによって、この視点によって世界を感受する技術をトレーニングしていけるわけです。10年ぐらい前のブログのはじめのころには、日常を扱った物語ってつまらないので基本的に嫌いなんですよねって、言いきっています。それはなぜか?といえば、まず一番は、そういう感受性が自分の中にセットされていないので、そういうことの微細さや感覚が、甘受できないから、全然面白くなかったんだろうと思います。

自分の視点じゃない、他者の視点の想像力をどう自分の心の中に作るかが、他者を理解する第一歩なんだな、と理解しました。自分の心の中に他者を構築することで、異なるタイプの感受性の形式を筋トレして修練して構築していく。それはまずは自分とは異なるものという形での仮託の対象になりますが、それを長期間継続して修練して積み重ねると、スイッチの切り替えがゆるくなり、ほとんど自分同様に「自分」と統合されていくことになります。

これは技術なので、習得可能なのです。少し時間はかかりますが。この異なる感受性を獲得することが「技術」だと強調するわけは、ずっと問い続けている「内発性がない人間はどうやったら獲得できるのか?=絶望している人が自分で自分を変えることは可能なのか?」というあの設定に深くかかわる問題だからです。はっきりといいかえれば、僕は、内発性(=人生を楽しめること)は、努力によって習得できる技術なんだ!ということが言いたいわけです。なぜならば、それは自分の経験の実感・体感からかなり普遍性がある形に分解できる「技術」なんだという手ごたえが最近あるからです。

このジャンルがここまでやる価値があるかどうかはわからないけれど、仕事とか別のことで、こういう「感情移入して楽しめる感覚」は意識すれば技術として習得して鍛えられるって思うとなんか希望があっていいよね