この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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気持よく自由を楽しむための「めんどうくさい」だってあると思う

完全に自由であるよりも、ある程度制約があって、それを乗り越えよう。そのための手段は自由だ、って言われたほうが
私はより自由を感じるし、楽しめることが多いです。
自由を楽しむためには、「目的」や「手段」において、なんらか縛りプレイがあった方が面白い。


「自由」の価値は、それを使いこなす人によって決まる。使い手がへぼかったら低い価値しか持たない

ちゃんと価値がわかって、それを受け取れる。私は幸せものなのね (papa told meにそういう台詞があってすごく印象に残ってる)

私にとっての「自由」というのは、相当訓練しないと楽しめるようにならないものです。
「自由」はとても価値が有るものだと思います。
しかし、いきなり「自由」そのものをポンっと渡されても、私はそれを使いこなすことが出来ない。
低いレベルで自由を味わうことしか出来ない。 それだと、たいして楽しくないんですよね。
生まれつき「自由」を楽しみつくせる人もいる人もいると思いますが、私にはなかなか難しいところです。



よく例に出されますけど、「読書感想文」とか「自由英作文」とか。
あれって、自由に書けと言われても困りますよね。
最低限の型が抑えられてないと、せっかくいっぱい思ったことがあっても、それを表現できない、伝えられない。
それどころか、「感想」といわれても何を考えたらいいのか、という時点で詰まってしまう人もいる。
これに対し、小論文や読書感想文の書き方を教わった方ならわかると思いますが
ちょっとした型が身についてたら、自由に、効率よく書けますよね。
そのために、あえて「型」を教えてくれればいいのにって思った人たくさんいると思います。
私はそんなわけで、何事にもまず「型」を求める平凡な人間なわけです。



より「自由」を楽しむためにいったん「制約」を受け入れて、それを乗り越えていくって考え方が割りと好き

そんなわけで、私はあんまり自由すぎるのが好きじゃありません。
自由度が高過ぎるゲームを楽しむのが苦手です。
多分、どうしても足が地についてる感覚を求めていて、そこがふわふわしてる感じが苦手なんですね。
自由度が高いゲームを求める人は、多分「足が地についてる感覚」を必要としてなくて、
むしろ自由にはばたくような感覚が好みなんだと思っています。
ここらへんは感覚の違いだし、やりようによっては別の感覚に訓練して慣れるくらいはできるのかな。


とにかくそんなわけで。
私は、最初はきっちり制約があって、それを乗り越えていくタイプのゲームが好きです。

ゲームにかぎらず、仕事でもなんでも、
①まず一定の制約(型や作法)を踏えてそれをきっちりこなせるようになり、
②それを土台として、そこからできる事を増やしたり視野を広げていくことで
③ようやく自分なりの実践ができる。自由に考え、行動しても楽しめるようになる。

という考えかたが馴染みます。いわゆる「守破離」のことですね。



自由に関して言えば、一定のめんどくささや窮屈さは「より自由をつかいこなせてる感じ」につながるところもあると思う

はてなについて言及してるコメントでこんなんみかけた。

「ただ感想言うのにもがんばる」に得心。はてなー2chやニコ動ユーザーより賢いかどうかはわからないが、はてダやはてブ2chやニコ動より頭をひねってからものを言うことを期待されるサービスだ、とは思う。

2ちゃんねるだと「お前在日だろ」で終わっちゃうんです。アメーバだと「あんた嫌い」とか。そういうのがあまりなくて、健全な理論で皆が戦ってる感じがする。

はてなの人が知的だとか健全だとは必ずしも思わんけど、めんどくさいとは思う。
でも、このめんどくささってのが結構好きだ。こっちのほうが「自由」のあり方としては好ましいと思う。

「お前在日だろ」とか「あんた嫌い」みたいなことを言うのが自由だと思ってる人って、自由の使い方が恐ろしく下手に見える。自由をそういう風に使って満足してしまう人は、正直つまらないと思う。
さらに、罵倒だとか侮蔑的なことを言い捨てて、それが責められないのが自由だと思ってる人は、もはや他人の自由を制約してるわけで、自由というものを根本的に勘違いしていると思う。
自由だからこそ、言うべきでないことは言わない、言うべきことはしっかり言葉を尽くして言う、って人のほうが自由を上手に使いこなせていると感じて好みです。

こういうのを考えるのは「窮屈」だし「めんどくさい」かもしれないけれど、
その「めんどくささ」を乗り越えてる人たち同士は、無制限のひとよりずっと「自由」を楽しめてると思う。
なんといっても、そういう人たち同士のやりとりは、みていて気分が悪くない。
「気分の良い自由」のために、みんなで多少の「面倒臭さ」や「窮屈さ」を引き受けるのは、個人的には全然ありだと思ってる。




最近話題になってるアレについて当り障りのないことを書こうとしたら抽象的になりすぎて自分でもわけわからなくなったので、ここから別の話。

不自由不自由って言うけど、自由を雑に扱いすぎて、自らその自由を狭めてきた反省は必要じゃないかな?あと、今までが怠慢で良かっただけでこれからだってちゃんと努力すればなんとかなるんじゃないかな?

http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/01/01/072258

“自分だけの意見”をいうリスクが発生した。もともとあったけれどもそのリスクがものすごく上昇した。
だから、みんな一般論しか言わなくなる。不自由。
最近のサイトをみても、みんな一般論しか述べていなくて、自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてるっていうブログとかサイトがない。あっても、すぐ、“お前はおかしい”ってリプがついて、消えて行ってしまう。
でも、そういう他の人と違う、っていうものが大事なんだ。この世界には

総論賛成だけど、各論反対。
この観点は重要だと思うのだけれど、この観点をまもるためにはクリアしとかないと行けないことがあると思ってて。

私は小島さんがおっしゃるような自由が実現するといいなと思ってる。
ただ、「各人が他の人と違うということを主張できる自由」というのは結構レベルが高い。
その自由が実現するためには、各人がどうすべきか考えて、それなりに努力するべきだと思うんですよ。

そうしないと「むかしはやんちゃで来たけど今はできなくてつらい。昔はよかった」だけの懐古厨、悪く言えば老害のつぶやきでしかない。
別に今からだって「自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる」は可能なんだよ。
でも、昔と同じで今同じことができるようになろうと思ったら、今に合わせて、その上でどうするかって話しませうよ。

ただ誰かのせいにして諦めるだけでいいんかい、と。ただのグチかい。それじゃつまんねえじゃないですか。




具体的に書きますけれど、私はとある人にずっと絡んできましたよね。

で、私はずっと同じことを言ってきたつもりです。
「自分がAという主張をしたいなら、他人の話になったとたんにAと矛盾したBしたことを主張するのやめろ」ってことです。
書く「内容」についてはそれほど口出ししてこなかったはずです。問題視してたのは「書き方」の話です。
一貫性が大事みたいな一般論が言いたいわけじゃなくて
「自分で自分の首締めるような真似をして、自分を可哀想がるのはクソだろ」って言ってきたつもりです。

で、そういうことを言ってきたのは、はてなという場所が、
「自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる」
って話が続けられるような場所であってほしかったからです。



で、今後もそうあるためには、今まで抱えてる部分で本来の目的と必要ない部分は何とかすべきじゃないですか?

①別に何でもかんでもネットに書く必要ないよね。
 「各人が他の人と違うということを主張できる自由」が目的なら、それ以外の所で余計なこと書いてませんか?
 そっちの自由まで欲張るのはちょっと虫がよすぎるんじゃないですかね?

②「自分だけの意見」であることがリスクなの?ほんとに「自分だけの意見」であることが叩かれてんの?違うんじゃない?
 ちゃんと「自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる」って書いてる?
 自己主張するときにその時に余計な罵倒とか入れてない?
 さすがに自由っていっても、他人の自由侵害したり他人罵倒して主張する自由はないと思うんだけどそこんところどう考えてんの?

③昔自分たちがテキストサイトはてなで書いてたことはよくて、
 Facebookで書いてるようなことはダメって、それ単に今までのやり方に固執してるだけとちゃうんですか?
 ただ先にネットに住み着いてただけなのにいくらなんでも選民思想とか老害ぶりがひどすぎやしませんか?



主張する際にいちいち口調が悪いとか、いちいち相手を罵倒するところとか、上から目線とか、そういうのまで無いとダメなん?私は自由の名のもとにこういう①~③みたいなのが野放しになってる今の状態の方がよっぽど気持ち悪いです。はてブの気持ち悪い人たちってそういうところに反発して発生してるところもあるんじゃないかと思ってる。そういうところが「村」だって言われてるんじゃないですかね・・・。

なんでもかんでも「自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる」が言えるって素晴らしい、を御旗にして、他人への侮蔑的表現やら、勘違い垂れ流しを続けることが許されるわけ無いとおもってたし、そっちがメインじゃないだろ。もし本当に「自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる」を今後も実現していきたいならそれ相応の努力はすべきでしょう。
そういうのひっくるめて、全部がいままでと一緒がいいとか言うのはちょっと狂気じみてると思うんですわ。

やりたいことを思いっきりやるためにはやりたくないことも思いっきりやんなきゃいけないんだ (ちはやふる

今までは怠慢でもよかったというか、怠慢通り越してヒャッハー言いながら好き勝手しすぎただけやろ…。そういう黄金時代が終わったらもうだめだ…ってのはちょっと夢見すぎじゃないかな。「自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる」を表現するのがそんなに難しいのか?なんでこんなに嘆く必要があるのか?って思ってしまいます。



ただ、こう思うのは、私があんまり葛藤抱えたことがないつまらない普通の人間だからなんだろうな……。正直嫉妬してて、感情的になってるのは否定しない。