頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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みんなの規範と個人の美学

何かを指して低俗と呼ぶためには求められる代償がある。
何かを低俗ということは、逆に何かが高尚であると考えているということだ。
つまり、そこには自身のものさしが存在する。

何かを低俗と呼ぶことは、自分が何を高尚なものと考えていることを提示することになる。
自分の価値観、もっといえば美学を提示することになる。
美学は、自分の観測範囲、知識、思考力、そういったものから形成される。
言ってみれば、自分の根っこみたいなところ。それを他者の評価に晒す覚悟が求められる。

何かを低俗呼ばわりすることは、己という人間の根っこの部分をさらけ出すということにつながる。
これは、なんだか恐ろしい。
少なくともネットではやりたくないなと思った。



チキンな私は何かを批判する時には、「みんな」の規範を持ち出したりする。
普段は意識してない規範を、その時だけ都合よく思い出したりする。

本当は、自分が何かを気に入らないだけだったりすることが多いのだけれど、
それをごまかすために、むりやり規範的なことを持ち出して、それに代弁してもらう。
「これは私個人の美学の話じゃないですよ。私がどういう人間かをさらけ出したりはしてませんよ」
って自分の中で言い訳してる。

これはとても便利で安全なのだけれど、こればっかりやってると、
自分が何を大切に思ってるのかとかそういうことがわからなくなってくる。



だから、節目節目だとか、大事な選択の時には自分の価値観をきちっと出して確認するべきなんだろう。
でも、それなら、どちらかというと、何かを低俗と呼ぶという形ではなく、
「自分にとっては、これが美しい、これが好きだ」という形であってほしいと思う。
そういうものがひとつ持てたら、何かもっと日常がキラキラすんじゃねーかな、とか思ってる。
特別な自分になりたい願望、ワナビーのちょっとゆるいやつみたいな感じかな。


にも関わらず。いつもそうならない。
何かがダメだって思うことはあっても、
何かが好きだ、何かが美しいと思うって形で感情が揺さぶられることが出てこない。

そりゃ当たり前で、
「(世間一般では)低俗だと思うものが(個人の美学としては)好き」というパターンがあるんだよね……。
で、普段は世間一般に迎合してるもんだから、それを破り捨てるということに抵抗がある。
また、自分自身も「(世間一般では)高尚なものが好きな自分」ってものに憧れてたりするところがある。
そういう見栄なのか何なのかよくわからないところで混乱して、ずっと同じ所grgrしてる。


このポイントでこじらせちゃうとサブカルとかにいっちゃうのかもしれないし、
エイヤで飛躍できたヒトなんかは美術畑なんかに進むのかもしれないけど、
要は勇気がないので、なんとなく「世間一般で言う高尚なもの」を見に行ってはそれほど楽しめずに帰って来て、
結局おうちで自分の好きなものをだらだらと見て一日を消費していく。
「他の人には理解されないけど自分は好き」みたいなものはなく、みんなが見てるものをみて、普通に楽しんでる。




劇的なものもないし、特別なものもないけどなんだかんだ幸せ、なのかな?
そんなことより、2月3月は休日出勤が多くて嫌になるよ…。