頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

「ここまでは分かった。でもまだ自分に見えていないものがたくさんあるはず」という姿勢が好き

多分この記事は今後何度となくこのブログで紹介することになると思います。そのくらい、「これ」は大事なことなのに当たり前になってないと思う。最近ますます「自分が分かってること以上知る必要がない」という風に話す人が増えてきていると思うから。


一昨日「切れ味が鋭くない人が好きだ」という記事を書きました。
これは別の言葉でいうと「早々に結論を出さない人」が好きだということです。

ttps://twitter.com/valerico/status/567550137086390274
アイテム収集に拘るとか、wiki見ても難しかったとかは、○○○さんの感想なので全然よいと思いますよ。まだ自分に見えていないものが沢山あるはずという前提に立ち、そういう可能性に目を向けるようなレビューになっていれば、他の部分を無視することにもなりませんから。

「とりあえずここまでは来た。だが、まだ自分の知らないことがある。この先に積めるものがまだまだある。それでも、今の私はこう思う。今の私はこういう風に考えた。これは私の今の思考の報告だ」という人の話の方が気持ちが良いです。

変わる余地が残ってる人、そこで学習が停止していない人がいいです。

必要なことを全部わかって書くのは難しい、必要なこと全部考慮するのも難しい。とてもそこまではできない。その際の「開き直り方」が大事

一ヶ月前に書いた記事からの引用ですが

あることを腰を据えてじっくり学び始めると、しっかりした知識を獲得し、余程の自信を得られるまでは、自分の意見を発表しようとは思いません。そのテーマについて、先人たちがどのように思考してきたのか、よく咀嚼したうえで、自分の立ち位置を見つけなければならないのです。「専門家」とは、入力と出力のあいだに時間差を保てる人のことを言います。この時間差の広がりを「体系」というのです。逆に、その時間差がない人のことを、世間では「バカ」と読んでいます。

イケハヤさんのようにインプットしたものをそのままアウトプットする人がいます。量だけだとアウトプットはすごいことになってます。でも私はこういうのを「バカのアウトプット」と呼ぶことにします。

とはいえ、理想はなんでも「専門家」のように考えることかもしれないけど、なかなかこれは難しいしそれだとさすがに窮屈です。どこかで開き直るべきだと思う。 

上の行為が「バカ」なのだとしたら、別に「バカ」になってもいい。バカがイケないわけではないんです。ネットはもっと自由に発言できる場所であって欲しい。手の届かないものであるのはつらい。



だから。

みんな自由に発言してもいいから、「自分の学習は未完成で、暫定的なものだ」という認識を手放さず、間違いや不足を指摘されたらそれは学習の機会だと思って歓迎するくらいの心意気をもっていてほしいと思います。そう思っているだけで、文章の書き方や、人との接し方も変わってくると思う。


いろいろわからないところがある。考えとして不十分なところもある。それでも書きたいのだ、という意識であれば、少なくとも自分が分かる範囲について、自分が考えられるところは丁寧に考えようとするのではないかな、と。

もちろんこれは殆どの人には言うまでもない話なのですけれども。


「ハラスメント体質」の改善について

逆に、私は仕事でそういう必要性があるわけでもないのに判断や決断が早過ぎる人というのがあまり好きじゃないです。そこでもう充分だ。これについての学習はこれで充分だ。これ以上学習する必要はない、と考えることはハラスメントにつながりやすいです。

http://possession.hatenablog.com/entry/2013/06/29/125039
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/05/29/100701

コミュニケーションが成立していないのに「一方的に相手の文脈によって」成立したことにされてしまう。この際に、自分が思っていないことを思ったことにされてしまう。自分の感覚を裏切ることを強要されるこれがハラスメントなのだ

私は「理解への努力を拒絶した」上で、「自分の中途半端な理解を固定したものとして押し付ける(レッテル貼り)」という行為をハラスメントであると認識します。こういう行為を常習的に行っている人は、もう「ハラスメント体質」とでも呼ぶべきでしょう。問題はここです。

長期的に見れば問題なのは細かい言葉づかいなどではなく、その人が学習停止してしまっている、ハラスメント体質になってしまっていることだ、という認識が広まってほしいなと思います。今ってわかりやすく言葉狩りに偏ってる気がしてあまりすきじゃない。 



言葉つかいが間違っていたならそれを直せば良い。間違いを指摘された時の態度が大事なんだと思います。そこで「これが俺の持ち味だ」「私はわたしとしか言いようがない」「差別ではない区別だ」と返してしまう人は完全に自分を完全なものだと思っているのでしょうか。これ以上学習するつもりがないのでしょうか。自分が構築してきたスキーマが強固すぎてもはや壊せなくなってしまっているのでしょうか。 そういう人が、私はいちばんこわいです。 無駄にエネルギッシュでずんずん先に進んでいくものの、間違った時にそれを修正できない制御不能なブルドーザって災厄以外の何物でもない、

トンデモさんは自分に当てはまる言葉で他人を批判する - Skepticism is beautiful
http://possession.hatenablog.com/entry/2014/01/28/123101



早々に結論を出してそれを固定化してしまうことを避けるのは「自殺をしないためのシステム」としても非常に重要

学習停止が他人とか関心がない行為程度でとどまっていればよいですが、それが自分に向かうときがあります。

うつ病の特徴の1つとして「固定観念(特に自己否定的な思考)」から脱出できない、というものがあります。思考の高速ループ、しかもそれがネガティブなものであると、考えれば考える程苦痛になり、その思考を無理やり止めるために薬に依存したり、自傷行為にいってしまうことがある。

それよりは、些細な事でもいいから「自分の考えを上向きに変えられる」ことが重要になってくると思う。こういうことを考えているときは幸せな気分になれる、とか美味しいものを食べてる時は気分が良い、とかそういうのでいいと思います。




上で散々「学習」って言葉を書いたので堅苦しい話かと思われたかもしれないですが、実際はこういう些細なことです。小さな学習を積み重ねて、ちょっとでも気分よく生きられるようにしたいと思ってるだけです。