この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです。 ※記事を読まずにはてなスターを押して回る行為はお断りしております。

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原爆ドーム建設100周年に関するメモ

原爆ドーム - Wikipedia

元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコ世界遺産に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれている。

ここまで紆余曲折があったのですね。知ってる人には常識レベルのことだと思いますが、修学旅行で原爆ドームを見に行ったにも関わらず、お恥ずかしながら今までまったく経緯をしらなかったのでこの機にまとめてみました。

1949年広島平和記念都市建設法 ~ 1955年平和公園建設

復興が進む中で全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められ、当初は産業奨励館廃墟も取り壊すべきだという意見も多かった。新聞は「自分のアバタ面を世界に誇示し同情を引こうとする貧乏根性を、広島市民はもはや精算しなければいけない」等と書き立てた。しかし1949年8月6日に広島平和記念都市建設法が制定されると、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として広島平和記念公園構想が本格化する。原爆ドームこと産業奨励館廃墟の除去はひとまず留保され、1955年には丹下健三の設計による広島平和記念公園が完成した。この公園は、原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図があった。

1960年楮山ヒロ子の日記 ~ 1966年 永久保存の決定

原爆ドームが保存された理由~風化するから遺産を残す : ブロガーかさこの「好きを仕事に」
楮山ヒロ子のこと: 苅尾臥竜

1960年代には風化が進んで崩落の危険が生じた。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。広島市当局は当初「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由から原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、

議論の流れを変えたのは市内の大下学園祇園高等学校の生徒・楮山ヒロ子の日記である。彼女は1歳のときに広島市平塚町の自宅で被爆し、15年後の1960年に「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会が永久保存することを決議する

1990年~ 国の史跡指定・ユネスコ文化遺産登録

その後定期的に補修工事が施されるなど広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年(平成7年)に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコ世界遺産文化遺産)への登録が決定された


ただ、原爆ドーム世界文化遺産登録に対するアメリカと中国の反応はこんな感じなのね…。

原爆ドーム世界遺産登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われた。アメリカ合衆国原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた(アメリカ国内では「原爆使用によって、100万人のアメリカ軍将兵を失うおそれのあるダウンフォール作戦を回避できた」「投下はやむを得なかった」として原爆投下を肯定する意見が強い)。
また中華人民共和国は「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」として審議を棄権した。審議の結果、原爆ドーム文化遺産として登録された。

なぜか同じタイミングでアメリカ西部ニューメキシコ州で、70年前に世界で初めて核実験が行われた場所が一般に公開されてますね。
世界初の核実験場跡地 米で一般公開 NHKニュース



仁科芳雄」博士について

仁科芳雄 - Wikipedia
日本の原子爆弾開発 - Wikipedia

1943年2月28日竹内研究員が数値計算の報告書を提出して、理論は実現に近づいた。海軍の原子爆弾の研究は解散したが、アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究所はウランの分離によって原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させる。
理研の仁科研究室が中心になって原子爆弾の開発がおこなわれることになった。この開発は、仁科の「に」から「ニ号研究」と呼ばれた。ニ号研究・F研究には当時の日本の原子物理学者がほぼ総動員され、その中には戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹も含まれていた。しかし結局、1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲(日本本土爆撃)によって設備が焼失し、日本の原爆開発は潰えることになる。

日本でも早くから原子爆弾の開発を行っており、理論的には完成に近づいていた。
陸軍も原子爆弾の脅威は十分把握していたということになる。だから日本側が原爆を落としていた可能性も無きにしもあらず。


原爆投下後、仁科教授はすぐに投下された爆弾が原爆であると判断し、政府に報告を行っている。
この博士の報告がなければ、終戦がもう少し遅れてさらに死者が出ていた可能性がある。

同年8月6日、アメリカ軍によって広島市に「新型爆弾」が投下されると、8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査し、レントゲンフィルムが感光していることなどから原子爆弾であると断定、政府に報告した。これが日本のポツダム宣言受諾への一因となった。引き続き8月14日には8月9日に2発目の原爆が投下された長崎でも現地調査を実施し、原爆であることを確認している。
また、「終戦の日」8月15日のラジオ放送において原子爆弾の解説をおこなっている。

ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹朝永振一郎の恩師でもあるらしい。読んでみようかな。