頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「ユリ熊嵐」 

見終わりました。事前にこういう話かなーという予測はたてていたのだけれど

この勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の<位置>の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。

http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2015/04/24/233920

だいたいあってたと思う。ただこの根底にある「ペシミズム」はあまり強調されず、人と熊の間は奇跡によって繋がれることになり、希望を感じさせる終わり方になっていたと思う

世界は変わらない。それでも個人は己の「スキ」を信じて生きよ

この作品は、ものすごく大掛かりな仕掛けがありつつも
物語が始まってから終わったあとも大勢が変化しないことが面白いなと思います。


登場人物は物語の中で多くの紆余曲折を経ているが、
「学園」そのものは変わらない。「透明な嵐」はなくならない。
世界そのものは、かわらず人を均しにかかり、
その中で常に誰かを悪と認定し、スケープゴートを求め、排除せずにはおれない歪んだ構造を維持し続ける。


主人公はそんな世界を変えたりしない。
もともと、そんな世界なんてどうでもいい。
ただ、「スキ」な人と手を取り合ってその世界から去っていくだけ。
世界と自分は関係ない。大事なのは自分の「スキ」だけ。
彼女たちの関係は誰からも祝福されないし、誰も祝福しない(唯一祝福できる「るる」は先に退場する)
彼女たちの勇気は誰からも讃えられないし、誰も救わない。


彼女たちは彼女たちで、すべてを投げ出して勝手に二人で幸せなキスをして終了。
後のことなんて知ったことか。私達はこのセカイから脱出するぞジョジョー!
そんな彼女たちを、物語内に蓄積されていた奇跡が手助けする。ユリ、承認!


そんで、そんな彼女たちのわがまま勝手を貫いて突き抜けた姿を見て、これまた勝手に影響される人達がいる。
単独者として透明な嵐から自分の意志で抜け出し、自分のスキに殉じる人たちが現れ始める、と。
彼女たちにも奇跡が起こって、この変えようのない現実を突き抜けて自分の居場所を見つけることができるだろうか。
それとも「やっぱり神様なんていなかったね」ってことになるのか。リスクは高いけどやりたければやってみればいいんじゃないかな。

やっぱり神様なんていなかったね (やっぱりかみさまなんていなかったね)とは【ピクシブ百科事典】


こういう、強い割り切りと奇跡のもとにようやく成り立っているストーリーなんだけど。
あくまでこの作品は「メッセージ」なんでしょう。

このワガママ勝手を貫いて最後まで突き抜けた作品を「ロック」だと評したこちらの記事はほんま素晴らしい。

ユリ熊嵐の最終回はピンクフロイドを真似たロックワナビアニメ - 旧玖足手帖-日記帳-

ユリ熊嵐がこんなにロックンロールの話になるとは思っていなかった。ユリ熊嵐はストーリー展開がザ・ウォールをなぞっている。

紅羽と銀子が約束のキスを果たしても、またともだちの扉は断絶されて壁はいつまでもどこででも作られ続ける。だが、同時に良い作品を見てコピーをしたいという気持ちがある限り、断絶の壁はどこででもいつでもともだちの扉になりうる、というワナビのクリエイターを目指す気持ちを肯定したメッセージは強く感じた

亜依撃子とこのみが主人公のコピーで新しいロックスターのワナビの志が永遠に受け継がれる予感があることで、より一層未来へのバトンの肯定が描かれる。

幾原邦彦監督はそのような過去の映画やロックバンドを引用しコピーすることを自覚的にやっていると同時に、自分たちをコピーする若いワナビーを応援するようなラストでもある。

特に「コピーの肯定」って観点はほんまに素晴らしい。
主人公が世界そのものを変えたり救ったりする必要はない。
あくまで主人公たちは自分の壁を破壊するのみ。
そしてその姿をロールモデルとして、コピーフリーな素材として提供するのみ。
結果としてそれが力を持てば、世の中を変えうるかもしれないと。


世の中を変えるっていうとものすごく大変なことだと思うけれど、
自分が変わるのに世界そのものの問題と向き合わねば、っていうセカイ系のころはしんどかった。
ベストな選択肢を選ぶまで前進できないループ系の物語もしんどかった。
マルチシナリオすべてを踏まえて全員を幸せにしないと許されないグランドエンド系の物語はほとんど無理ゲーだった。
こういうことを考えるから、逆にちょっとしたほころびさえ許せなくて、逆に「透明な嵐」みたいなものが出来上がっちゃう。

それと比べると、そういう重たいタスクを一旦肩からおろして
世界の問題は世界の問題として把握はしつつ、
その中で、個々人が自分の幸せを実現する物語をつくり、それをコピーし合えばいいじゃないってのはだいぶ気楽な話だと思う。
そういうつもりで生きられればちょっと楽になれると思う。





余談。私はロックとかわからないのでマンガとかから関連作品について。

・この作品の後で「蛸壺屋けいおん同人誌」を読み返した。「ユリ熊嵐」はロックスターとワナビの間の断絶を過激に埋めようとするけれど、蛸壺屋の方はそれをゆるやかな形で埋めようとする。その対比が結構面白い。

・ラストシーンは、「BASARA」という作品と構図が似ていると思った。こちらは自分たちが結ばれる過程で世界を変えた。世界を変えずに結ばれることはあり得なかった。でも、次の作品「7SEEDS」では変えようのない世界を舞台にして、個々人が自分の答えを見出すという作品になっているのが興味深い。

・他にも世界を投げ出して二人で幸せになるという点では「狂死郎2030」を思い出すね。社会の打倒を目指さずあくまで二人が出会うことだけを目的とする徹底ぶりが当時は衝撃的だった。

・あと「チキタ★GUGU」とか。特に「どういう人間こそが美味しいのか」という観点はすごく重要。

・ロックつながりで「キラ☆キラ」のきらり生存エンド以外の展開もこの作品と通じる所あるね。



あと、この系統で一番好きなのは「スマガスペシャル」かな。

Perfect! Happy never end
予定調和の悲劇ならもういらない!!
Perfect! Happy Endless
この世界は奇跡を待ってる!!
We gonna be alright (スマガスペシャルED(Perfect Loop)

これ、「まどか☆マギカ」のほむらがたどり着きたかった世界なんだと思う。


自分がスキな子がクマリア様みたいな神様になっちゃうとほむらみたいにつらいことになるのよね。
スミカの代わりにギンコをみつけたクレハちゃんはうまいことやったものだと思う。