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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「中二病患者は理解を求めてる。しかし、それと同じくらい理解されたくないんだよ」

「ベストセラーの構造」って作品を久々に読みました。


ありふれた中二病は透明な集団と区別がつかない

まずは「異能バトルは日常のなかで」という作品から引用。

中二病患者は理解を求めてる。しかし、それと同じくらい理解されたくないんだよ」


すごくわかる。
この状態に陥っちゃった人間は、この2つの方向の綱引きを解消しなければいけない。

でも、出来ないとそのまま止まってしまう。
その結果、「みんなが大好きなもの」に素直に迎合できないが
それでいて、「自分だけが好きなもの」にこだわれない。
本流であったり、新しく登場した人気をけなしつつ、
本流からちょっと離れたところのものを好むようになる。


そういう行動形式はありふれている。


そして、それは単にこの2つの綱引きを
解消するすべを見出すことができないことが引き起こす受動的な結果にすぎない。

にもかかわらずその受動的な結果を自らの選択だと思い込んでしまう人がいる。
そしてそれを自らの選択だとおこいこんでいるからそれこそが自分の個性だと思い込んでしまう人がいる。
さらに、それを個性だと思い込んでいるから、それを自分の特別さの証明にしようとする人までいる。



しかし、実際にはこういう人間はありふれている。
当たり前だ。まだ他人と分化しきれてない状態の人間でしかないのだから。

だから、他人の意見の集合体であるランキングのようなものにこだわる。
自分の気に入らないランキングは否定し、その時はランキングなどつまらないと言い張るのに
自己規定の際には、結局自分がランキングの何位から何位までが好きかという話に依存してしまう。
スグに他者と自分で優劣を付けたがる。それで劣等感を感じたり、逆に人を傲慢に見下す態度をとってしまう。


そういう人間は未だに「透明」なのだ。

メモ - この夜明けまでに

この状態の人間は、まだ自己を規定する基準を自分の中に持っていない。
他者との関係の中において、自立することができない。
とても己のスキを貫くどころではない。





ベストセラーの構造

そして、この行動形態については30年以上前(1983年)に出版された
「ベストセラーの構造」って作品ですでに予見されている。

この本には

・猛威をふるう他人思考(=ニアリイコール透明な嵐)
・知性ではなく感性
・現実のイメージ化の氾濫
・それによって引き起こされる「個」への分断と自己の喪失
・故におこる、人々の活字への飢え、自己イメージの供給の渇望

などのキーワードがある。


あとからあとからイメージと情報を供給するのだが、取捨選択権を一見与えられているようでありながら、その実、選択の基準となる「自己」を持たぬ人々は、その供給過剰の中で、反対にいよいよ「自己」を選択することができず、イメージに対して無力である。それはもはや自己と親、自己と他人、自己と社会の区別もつかないし、事故が何を必要としているかの認識も出来ない、極めて病的なレベルにまで広まっている。

彼らが買おうとしているのは本ではなく自己を買おうとしているのである。自分自身では見出すことも出来ず、見出したとしても保ち続けることが出来ず、あるいはまた日常の、サラリーマンや主婦としての生活の中では実際必要でないばかりか有害でさえある自己自身を

彼らが欲しているのは現実であり、現実をイメージ化する儀式である

イメージは彼一人のものであり、彼が何をしようとどう自分を考えようと受け入れてくれる。それゆえ、彼は現実が他者によって形成されて言えるということを知ることが出来ないのだ。あるいはまた、小説が小説であること、虚構とそうでないものの違いも知ることができない。それでも、自己のイメージ化なしでは、人間はただイメージの海に溺れて生きていることはできない。それで、何かを求める。端的に自己投影できる何か、ほんの僅かの間でも自己を預けることのできる何か。マイナスの方向でへであれプラスの方向へであれ、自分が何かに属しており、何か明確なバックグラウンドを持っているのだと感じさせてくれる何かである

活字離れどころか、この、人々の活字への飢渇、何かを与えてくれる本への縋り付き方にこそ、真におどろくべきものが有るではないか。
かつて人々がこれほどに「メディア」を求め、飢え、そして途方に暮れていた時代があったであろうか?

(中略)
確かに小説の状況は、私にもさして芳しいとは思えない。ここ数年来の日本の全ジャンルに見られる小説のレベルの低下、おもしろくなさ、作品の粗製乱造ぶりと、また当然の報いとも言うべき売れ行きの低下とは、それを本業とする私が赤面して目を背けるくらいである。だがしかし、それを持って小説ジャンルの衰退といい聞いて、それで事たれリとして良いのであろうか?
その低レベル、粗製濫造の本に人々は手を伸ばし、失望し、それでもなおコリもせずに手を伸ばす。その現在の何百万という人々の活字への殺到ぶり、つまりは活字への飢えを、あまりにも、不当に軽んじてはいないだろうか?


この本を読むと「何が嫌いかより何を好きかで自分を語れよ」という言葉でさえ悪夢のように思えてくる。


本当に必要なのは「自分の基準」「自己」である。
本来は自己という基盤があって、そこから好きや嫌いが発生する。

だがもはや上のように「自己」を見出すことが困難になった時、
あるいは、親や社会から求められる「自己」のイメージが重すぎて支えきれない時、
そういう確かな「自己」を自分で持つことはもはや難しくなる。

メディアが提供するイメージやキャラ、あるいは好きな作品の誰か、のようなものに依存するしかなくなる。
だから、好きなモノがたくさんあっても、それだけでは自己を形成するのは難しい気がする。



というわけで、何かを否定するしかない状態よりははマシかもしれないけど。
んでも、「何がスキか」だけでは全然足りないと思う。
ましてそれがランキング何位とかいうことを気にするのは中学二年生までにしたい。


じゃあ何が必要かというと
「その作品をどうスキなのか、どう嫌いなのか」という基準部分を鍛え、育てて行くことだと思う。

別にスキでも嫌いでもいい。そっちの問題じゃねーよ、と。
その好き嫌いが、漠然とした感性程度のレベルでとどまっているのがダメなんだと思う。
そこからなぜスキなのか、どうスキなのか、それを好きな自分はどういう人間か、
そんな自分からみてこの作品はどうなのかってぐるぐる回していく感じかなー。



これについてだけど、正直私はあんまりというかほとんど出来てない。

あのね、私実は結構マンガの感想というか情報まとめしてるじゃん。
ホントは読みながらいろいろ思ってるはずなんだけど。
正直言語化するのめんどくさいやら苦手やらで、ブログではパパっとまとめるだけしかしてないのよね。

だから、全然おもしろくないと思う。
面白くしたくないわけじゃないんだけど、
どーしても自分が語るより作品そのものに語ってもらうほうが面白いって思っちゃうのよね。

そのあたりもうちょっとちゃんと考えたほうがいいかもね。