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「本音至上主義」「感受性至上主義」の人々

「真意システム」を紹介した記事にこういうコメントを頂きました。


はてな用語「真意システム」 - この夜明けまでに

基本的に「思っちゃったんだからしょうがない」をベースにしょうがなさを補強するために文量水増ししてるだけみたいな文章で叩かれてる人が真意システムを採用しがちな気がする。

2015/06/15 11:16


全くもって同感です。
「真意システム」自体は手段であり、表面的な現象であり、あくまで状態を示すバロメーターです。
それよりもその裏側にある原因の方が問題として大きい。

「思っちゃったんだからしょうがない」という感じで
本音や感受性を、自己正当化の根拠にしてしまうのは人間として避けがたいところですが、
これが極まってくると、本音至上主義あるいは感受性至上主義に陥ります。これが厄介。
本音や感受性を重視しすぎてしまう人というのは、間違いなく真意システムを発動しやすいです。
というより、これが常時発動しているため自分と異なる意見と向き合うことが妨げられるといってもよいと思います。


折にふれて引用してるけど「本音至上主義」という言葉を提示したこの記事が私はとても重要だと思っているので今回も紹介しておきます。

美しきニッポンの本音:日経ビジネスオンライン
ネットで「本音」を垂れ流しにしている人を見ると不安になる原理 - この夜明けまでに
アメリカン・スナイパー - この夜明けまでに



「本音至上主義」の問題とはなにか

①「本音」と「建前」を対立軸で考えてしまうという問題
②「本音」と「建前」の対立軸以外に思考が及ばないという問題

です。この人達は、脳内で「小泉郵政選挙劇場」をやってるんですよね。
他にもいっぱい考えることがあるのに、「本音と建前どっちが大事か」ってところだけで考える。
「情報が不足しすぎている」ところで、「する必要のない二者択一をしてしまう」こと自体思考能力が貧弱です。
そんなことをしても役に立たない極論しか出てきません。

善悪や正邪とは別に、「本音」と「建前」という座標軸が現れた時、無条件に「本音」を神聖視する考え方が力を持つに至る。と、ここにおいて、「露悪的な人間ほど信用できる」という倒錯が生じる。
つまり、より残酷で、より差別的で、より無遠慮で、より助平で、より欲望丸出しなご意見を申し述べる人間だけが「本当のことを言う人」として信用されるみたいな、黒魔術の秘密結社みたいなものが誕生する
あるタイプの人々は、邪悪な言葉の中にだけ真実を発見する。

本音至上主義者の人の最大の勘違いというか問題点は、
思考の軸が1本しかなく、また本来相補的な関係にある本音と建前を簡単に対立させてしまうところです。

「感受性至上主義」の場合は「論理」と「感受性」を対立概念とかんがえてしまうところに問題が在る。感受性を知識や教養や独立したものと勘違いしてるのではないでしょうか。その二元思考に囚われてる限りはずっと同じ所グルグルするはめになる。知識や教養もまた感受性を豊かにする、という当たり前の事実を拒むむので、傍から見たらただの反教養主義反知性主義にこだわっているだけで先に進めない。


この結果「自分の本音」や「自分の感受性」を絶対視してしまうようになると真意システムが発動しやすい。
コミュニケーションに齟齬が生じたとき、全ての責任が「自分ではなく相手」になってしまうからです。


自分の本音や感受性は、普遍的な価値を持っているわけではない。故に「本音だから許せ」「僕の感受性だけ尊重しろ」という法は他人には通じない

彼らは「本音」が、まさに「本音」であるそのこと自体によって免罪されるはずのものだということを強烈に信じ込んでいる人々だ。
彼らは、世が世である「現状」と「帰結」を、その「悪辣さ」や「残酷さ」や「不正」や「不平等」も含めて、もののみごとに全面肯定してしまう。ついでに、自分の「欲望」や、「偏見」や「差別感情」にも、あっさりと承認印を押す。「オレがこう思ってるということ以外に、何の現実があるっていうんだ?」

彼らは、自らの失言について、TPOを間違えたことや、身のまわりに密告者がいることを見落としていた見通しの甘さを反省することはあっても、発言の真意そのものについては決して撤回しない。自分のような血も涙もある生身の人間が語るナマの本音は、もっと尊重されてしかるべきだと自負している。

いつもどおりの平常運転で、露悪的な言葉を並べ、不埒な発言を繰り返し、差別意識を露呈し、偏見を丸出しにして語っている彼らは、自身を特段の「悪党」だとは見なしていない。むしろ、自分は自らの気持ちに正直なだけで、口のきき方やマナーにはもしかしたら若干の問題があるかもしれないけれども、人間として、男としての生き方について言うなら、それが間違っているなどということは、ひとっかけらもあり得ない、と、考えている

口の悪い、無遠慮な、正直であることだけが自分の欠点だと考えている支持者たちは、議員が罵詈讒謗を発する度に快哉をあげ、悪口雑言を並べれば、その度ごとにシンバルを持った猿のおもちゃみたいに両手を叩いて大喜びの仕草をする。

「自分の思ったことを言ってるんだからいいでしょう?」
「思ったことを言ってるだけなのに批判されるのはおかしい。言論統制だ」
という言葉を口にしてしまう人たちの無反省ぶりがじつにわかりやすくまとめられています。



相手の納得(論理的整合性)が大事なときに、「人格の良し悪し」や「強さ弱さ」を気にしてしまう人はそもそもルールを間違えている

感情を伝える時と、自分の意見を伝えるときは基本的にルールが違います。これすごい大事。

①とにかく感情を伝えるが目的なら、内容の正しさなんかより勢いのほうが大事なのかもしれません。下手に理屈づけをしないほうが良い場合も多い。

②一方議論や主張をする時って、信念の強さとか、立場の強さとかより、まず論理的に筋が通ってることが大事だと思うんですよね。だからオピニオンを述べるときはちゃんと筋道建てて話してください、正しく言葉を使って伝わるように話してくださいとなります。

にもかかわらず本音至上主義の人や、感性至上主義の人は「意見を説明する」時に論理や言葉を非常に蔑ろにしてしまう。そして、批判されると「信念の強さ」とか「人格の良し悪し」という話をしだしてしまう傾向にある。
これは「感情」と「意見」の違いが多分よくわかっていないことによって生じるのではないかと思います。


本音主義には、「反知性主義」というタグを付けることも可能だと思う。もう少し大雑把に「ヤンキー」というレッテルで処理することもできるかもしれない。

時々失言をカマすのは、単に脇が甘いということよりも、自分がお坊っちゃまでないことを証明しなければならない強迫があるからなのだと思う。困ったことだ。要するに、彼は、自分が「世情に通じた」「腹の大きい」男であると思われたいのだろう。普通に粗暴な環境で育った人間は、わざわざ国会議員になってまで粗暴な言葉でマッチョをアピールしたりはしない。
そう思えば、あれは、かわいそうな人なのだ。


最後に。

こういう言葉は「他人を理解するための枠組みとかツール」であって、他人に直接向けるべきではありません。「真意システムきました~」とか「はいはい本音至上主義乙」みたいに使っちゃダメです。そうしないと他人に向けて「Aに優劣があるからこそBで補おうとする人がいるんだろうね 」みたいな攻撃的な記事を書いてしまう人と同じレベルに堕ちてしまうので注意。