この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです。 ※記事を読まずにはてなスターを押して回る行為はお断りしております。

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メモ 「オールラウンダー廻」5巻  

村社会においては加害者だけでなく被害者までも存在そのものをなかったことにされる、という話。


5巻で取り上げラ得れているのは北村兄弟、特に弟雄大の葛藤の話。

北村兄弟の兄歳大は全日本ジュニアの強化選手にも選ばれるほど優秀な柔道選手であったが、ある日練習試合で他校の生徒の頚椎を破壊してしまう。その生徒は首から下が動かなくなってしまったし、兄歳大もそのことがきっかけで二度と柔道のキャリアを歩めなくなってしまった。


さて、有段者同士の対戦でこのような事故はまず起こりえない。実際、この事件は兄歳大が一方的な加害者というわけではなかったし、ただの不運な事故というわけでもなかった。被害者の選手と歳大は入部当初から反りが合わず、兄がジュニア強化に選ばれてからはこの被害者による嫌がらせが度々行われていた。また、事故の時は顧問教師はいなかった。そういったいろんな条件が重なったことで、取り返しがつかないことが起きてしまったわけだ。本当にこの事件を理解するという意味では、二人の確執や学校関係者の責任なども考慮されるべき話しであった。


しかし、そういう事実はまわりの人間にとってはどうでもよいことだ。周りの人間はただ結果だけを見て、兄を加害者扱いし、生徒を被害者として扱った。

その結果、「加害者」「被害者」「加害者の家族」にそれぞれ何が起きたかが描かれている。




加害者の扱い=「加害者は一生許されない」「元通りの立ち位置で社会には復帰することは絶対にできない」

兄は今までの柔道のキャリアは全て無かったことになり、彼は一生十字架を背負い、身を低くして生きることを余儀なくされる。

加害者の人間は罪に応じた責任を取って、それを償う、という機会は与えられない。社会の中に一度過ちを犯した人間を許し、社会に復帰させる<機能>がそもそもなかったのかもしれない。
だから、刑法に基いて法的な責任が有限にしたところで余り意味が無い。社会的な責任は無限大に問われる。いちど「責められるべき存在」になったらそこで終わってしまう。

被害者・被害者家族の扱い=「いじめは、いじめられる奴も悪い」「被害者も我々の仲間から除外する」

では、無理解なら無理解なりに、周囲は加害者が責めるだけで治まったのかというとそうならない。おかしなことに、周囲の攻撃は被害者にも及ぶ。

「向こうの家族が県と学校を相手に訴訟を起こしたんだが、とたんに近隣から嫌がらせが始まったらしい」
「……被害者なのに?」
「そうだ。「学校関係者」だの「父兄代表者」だのと名乗って、その実匿名で「学校も教師も悪くない。訴訟を取り下げろ」とか、被害者を問題児扱いした手紙が来たり、ブログに中傷の記事をかかれたりしたらしい。向こうはそれを我々がやったと思っているんだ。」

残念ながらよくあることなんです。いじめによる自殺の際にも、加害者のみならず被害者までもが責められる。いろんなケースを見てきましたが。結局日本人は、村社会の中で何か問題が起きると、公の場でその問題を議論しようとなどせず、ただなかったことにしたがるんです

被害者もまた共同体から除外される。場合によっては加害者以上に被害者が祭り上げられることさえある。どちらにせよ事件が起きた時、加害者も被害者も等しく「共同体の外部」の存在として、共同体を維持するための格好の「生贄」にされる。つまり「何をしてもよい人間」として扱われることになる。

http://kousyou.cc/archives/4259
現代社会でも閉じた共同体の秩序生成・維持を目的とした「生贄」が人の形を取ることがある。犠牲となった人を聖化することで、共同体の中の相互暴力(カオス)の存在を覆い隠し、生贄の風習を温存した秩序の維持に与することになる。

多くそれは共同体内部の周縁性をおびた者に肩代わりさせられる。さらに、この役割は共同体の外部に転移される。供犠の暴力はひたすら遠くへ、外部へとさし向けられる。

失敗国家においては、神聖娼婦の地位はどこまでも貶められてしまう。『必要だが卑しい職業である』という認識の下、市街の中心で神聖な儀式を行い、荒ぶる神を慰撫し、その対価として人々から侮蔑され唾を吐きかけられる。

http://ncode.syosetu.com/n9073ca/95/

今回の件は、圧倒的に酒鬼薔薇聖斗が悪者になっているため、被害者を責める人があまり多くないが、別の事件で、被害者遺族が無責任な人たちに責められている図は多く見た。 あれはとてもやりきれない気持ちになるが、構造的に避けるのがなかなか難しい話でもあると思う。

私としては、共同体およびその方針にもっとも敏感なマスコミはこの構造から自由ではないことを理解しつつ、個人的にはそこから距離を取るようにしたいなと思う。


加害者家族の扱い=「事件関係者も平和剥奪処分」「連座制

兄の咎は、俺にも及んできた。加害者の弟も柔道を続けることは許されない、といった「空気」が、学校の内外で作られていった。

俺は最初その空気を無視した。だがしかし、時間の問題だった。

結局俺は転校を余儀なくされ、恨むのは筋違いとはいえ、兄との関係も悪くなっていった。 つまりは俺も「なかったこと」にされたのだ

……ここにいたっては明確に「穢れ」の意識ありますよね、と。とにかく「なかったことにしたい」「共同体の外部に追い出したい」って意識が強いんだと思う。
できるだけ区別したいとは思うものの、実際難しいですよね。



「絶歌」の続きを読む前のメモ。

今日クローズアップ現代で「絶歌」の話をしていたけれど、やはり

①「遺族の許可を取って」「印税をもらわなかったとしたら」本を出すこと自体は可能なのか

②殺人事件のような深刻な事件を起こした加害者が社会に復帰しうることは認めるのか

と言った問題に対して応えることは周到に避けられ、

「遺族の許可を取ってないし」「印税をもらってる」んだから許せないとか、反省しているように見えないからこの件では許さなくてもいい、とかそういう話で終わっていた点が残念だった。

私もブログのような場所でこれについての自分の主張を書いたところで何の得にもならないので書きませんが、一応そういうことを考えつつ「絶歌」の続きを読んでみようかと思いました。