この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。最近TED聴き始めました

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「誰が言ったか」と「何を言ったか」の話

「誰が言ったか」と「何を言ったか」という話題にはうんざりしているのでちょっと意地悪な書き方をします。長々と書いていますが結論はシンプルに

「二択というなら私は誰が言ったかを超重視します」
「でも、これそもそも二択にするのは適切ではないし、問題設定そのものを間違えてるんじゃないでしょうか」

です。結論だけでいい人はここまでで読むのやめにして、意地悪じゃなくてとっても納得できるこちらを読んでください。

目の前に「正解を言ってる人」がいたとしてその人の言ってることが正しいからと言って、その人と無理に迎合しなくたって、もっと探せば他の「正解を言ってる人」に巡り合える可能性って全然あると思うんです

http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2015/07/20/193849

そもそも「結論」「プロセス」「発話者」の3つの要素があると思うんですが。

「何を言ったか」が大事という結論が支持されやすいみたいですが、私は「誰が言ったか」を超重視します。

というより「何を言ったか」が結論だけだとするなら、そんなものはほとんど重視しません。月次な言い方になりますが「結論」より「プロセス」の方が大事です。この2つを合わせて「何を言ったか」が大事と言われても、それ2対1になってるような気がして、すでに「誰が言ったか」が不利なのではないでしょうか。

「誰が言っているのか」「どのように言っているのか」「何という結論を言っているのか」の3つにわけて欲しいです。


他人について語る前に自分が意見をいう時のことを考えてみましょう

①自分が、正しいことを、しっかりとしたプロセスを経て言えるのはいつか?

そのことについては自分が詳しかったり、しっかりと理解している時だけです。違いますか?自分がそうなのだから相手もそうだと私は考えます。すごく難しい問題について、自分が全然わかってないけどたまたま当てずっぽに意見を言ったらあたっていたとして、それで自分はこの問題についてわかってる、と本当に思えますか?私には無理です。

だから、その人が何に詳しいか。プロセスを重視する人かどうか、の二点を考慮します。



②自分の意見はどこから来るのか?自分はどういう状況でも同じことを言うのか?
私は状況によって意見を変えます。つまり自分の意見は「自分が立っているポジション」に大いに左右されます。

たとえば、普段ミソジニー発言垂れ流ししてるやつが、ある時だけ女性の権利を様な発言をしていたとしたらどう考えますか?それはたまたまその人のポジションがその時だけ女性を応援する側にたっただけですが、そういう人に対してどう接しますか? その人の普段の言動を知っていてもなお、その時「何を言ったか」だけを重視してその人を評価できますか?その評価は正しいと思いますか? 私はとてもそうは思いません。
だから、「その人のポジション」を無視してその人の意見を考慮することはしません。


③自分がなぜその発言をしたのか?が軽視されて平気か?自分の文脈ってそんなに軽い物?
②とかぶりますが、「ポジション」よりももっと深いものとして文脈ってありますよね。感情面でこれすごく重要だと思います。むしろブログなんてここが一番大事でしょう?私はここ軽視されて結論だけ同意されてもちっとも嬉しくないです。自分の文脈はものすごく大事にしてほしがるくせに他人の記事に「他人の見方を読んで思うのが○○そのものの見方が全くないということ」とかケチつけるトンデモさんがいますが、言ってることは矛盾してるし自分勝手なクソガキだなとは思うものの、その気持はものすごくよくわかるんですよね。そのくらい、書き手にとって文脈って大事なはずなんですよ。

だから、私は「書き手の文脈」を軽視して「文章そのもの」を読もうみたいな意見には賛同しません。書き手の文脈や信条はすげえ大事だと思ってます(そういう意見があることは否定しません)




④その意見は自分以外の人でも言えることかどうか?
これは一見「何を言ったか」の方が大事、という意見を後押しするように思われますが逆です。日常レベル、常識レベルの物事については、そうそう人の意見は変わりません。だからそのレベルでたとえ正しいことを言ったとしても「ふーん」で終わります。そして、「何を言ったか」を重視できるのは主にこのレベルであると考えています。逆に難しい問題の場合、そもそも「何を言ったか」が正しいかどうかを私には判断できません。

だから、その問題が自分が何が正しいかを判断できるレベルかどうか、を考慮します。自分でも答えがわかるなら「何を言ったか」を重視してもいいですが、そのレベルでなければ「誰が言ったか」を重視します





私が「誰が言ったか」より「何を言ったか」を重視するのは、自分がすでにその話について詳しい時(自分が何を正しいかを確信している時)だけ

④の繰り返しになりますが、私は「誰が言ったか」を重視するのは、自分だけでは「何を言ったか」が正しいかどうか判断できない問題の時です。

簡単なレベルの話題であれば「私は誰が言ったかより何を言ったかを重視します」でもいいと思います。ですがそのレベルの問題については、そもそも「何が正しいか」はすでに自分の中に答えとしてありますよね。究極的には別に誰がいっても構わない問題だからそう考えるだけですよね。「誰が言っても構わない問題については、誰が言ったかより何を言ったかを大事にしよう」は誰にでも言えることであって、私には全く意味のない話をしているようにしか見えません。 命題をごまかしてませんか?


ちなみにその場合でも私は「どういう結論を言ったか」より「どういうプロセスで言ったか」が大事です。馬鹿(or天才)でもたまには過程をすっ飛ばして正しいことを言うことはあります。人間の感性や直観はすぐれてますからね。でもそれだと、まぐれかどうかは判断できません。判断できるのは自分自身が詳しい時だけです。私はどうしても「なぜそういう結論に至ったのか」をちゃんと述べてくれる人でないと、なかなか信用できません。

多分ですけど、「誰が言ったかより何を言ったかを大事にする」と言う人も、結局はプロセスを重視して、その人の信頼性を測ってませんか? それを「誰が言ったか」と「何を言ったか」という二項対立にするから「じゃあ何を言ったかを重視する」という結論になっちゃうんじゃないですか?


そもそも「何を言ったか」と「誰が言ったか」は対立するものじゃないのになんでわざわざ対立させているんですか?

私は「何を言ったか」が正しいのは必要条件で、「誰が言ったか」が十分条件だと思っています。「何を言ったか」は大事に決まってます。というより、それを欠くような人は問題外でしょう。

普段自分がわかるような範囲でしっかり正しいことを言っている。あるいは自分がわからないようなことでも「正しい」と信じられることを言ってる。そういう人だからこそ信用するんじゃないですか?だとすると、「何を言ったか」と「誰が言ったか」のどちらか大事か、という話も「何を言ったか」だけ正しければ十分か、それとも「誰が言ったか」も十分条件に含めるか、そういう話であるはずです。


にもかかわらず、なんで「私と仕事とどっちが大事なの?」みたいな話をしようとするのか。 

ということで、問題の設定自体が間違えていると思います。


なぜいちいち「誰が言ったか」を否定して「私は何を言ったかを大事にします!」なんてことをいう必要があるのだろう?

ちなみに「私と仕事とどっちが大事なの?」についてはこうかんがえると良いみたいです。

「どっちが大事?」は実は質問ではなく、「私を大事にしなさいよ!」という「命令」。その場は「キミが大事なんだよ」と言うのが正解。二択に絞っている時点で論理的ではないのですが、実は質問でさえなかったのです

http://yugo-yamamoto.cocolog-nifty.com/uragami/2006/10/post_3bca.html

これは私の個人的な意見ですが、これと同様に「誰が言ったか」と「何を言ったか」を対比させて「何を言ったかを大事にします!」みたいにいう話は、あまり論理的ではないし、質問ですら無いように思います。自分が論理的な人間で在ることをアピールしたい、だとか私は言う人によって意見を差別しないよ、というアピールをしたいという欲求が先行しているのではないかと邪推してしまいます。


もうここまで読んでる人いないでしょうから本音ぶっちゃけますけど「何を書いたかを重視しましょう」って話は現実どころか自分の感情すら見て見ぬふりをしないとたどり着かないキレイゴトだと思ってて、そんなお題目を疑わずに信じちゃってる人は気持ち悪いです。


「誰が言ったか」を重視することは全然不合理でも悪いことでもないので、無理に「私は、何を言ったかを大事にします!」みたいなアピールしなくてもいいと思うんですが。なんだろうかなぁ、学歴フィルタとかの話とかあって「誰がいったか」を重視するって言うとそれだけで反発しちゃうみたいなところでもあるのかな。よくわかりません。