頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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嫌いなものや苦手なものに「あえて関わるなら」直視したほうがいいかも

嫌いなものとの接し方ってのがあるのかな、と。


嫌いなものってついつい目をそむけてしまいますよね。もうちゃんと見なくなる。完全にみなくなるならそれはそれでいいと思うんですよ。接点がなくなって、他のことに夢中になって、そのうち忘れる、それができるならそれにこしたことはないし、それを目標にしたいところです。



ただ、中途半端に接する機会があると、なかなかそううまくいかない。それどころか多分嫌悪感がどんどん強くなっていくと思う。

視界に入った時には、もう嫌悪感を抱えてるから先入観に囚われて嫌いな点だけしか目に入ってこない。まして、直接見てない状態で他の人から話題に上った時は、過去の嫌な思いが蘇って反復してしまう。そうなると、もう嫌悪感だけがどんどん強くなっていくのでは。



そうやって、嫌いなものから目を背けてとりあえず罵倒するってのを続けていくうちに、嫌いだったものの実態がだんだんぼやけていって、なにがなんだかわけわからない抽象的な概念みたいなものになっていく。そして、それに対して憎しみをぶつけていくという作業を加えると、己の憎しみでさらに像が歪んでいって、もう完全に実物とかけ離れた怪物を自ら脳内で産み出してしまうような感じになるのかもしれません。


「おのれ、ゴルゴム」だとか「全ては"この世の全ての悪"のせい」といった風になっていく。その人にとっての悪というのは、実態が見えないからこそどんどんその人自身の憎悪を吸って育っていく。途中からはもう本物は関係なくて、その人の創作に近いカタチになっていると思います。


だから、極端に何かに対してのヘイトをぶつけているとき、そのヘイトの対象が抽象的であれば在るほど、実際は自分自身の心の闇を具現化しているのかもしれません。特定の個人であってもそれがブロックしている対象とかだったりすると、やはり同じようなことが言えると思います。



普段から「広い範囲」や「イメージ」に対して批判することが多い「みえないものと戦ってる人」になっていると思ったら、せめて憎悪を抑えるか、そうでないなら、イメージとだけ戦うのではなくて輪郭を捉えるためにも具体的な話をするように意識しないといけないかもしれません。