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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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ガッチャマンクラウズ11話  「結局この作品は一ノ瀬はじめなのか」「仕方ないッス」 

※かなりひねくれた見方をしているかもしれません

ツバサちゃん、この戦いかた、なんか違うっすねー……仕方ないっす。

このセリフ出てきた時に、UC恒例の「流れ変わったな」という期待と、自分も「ああ…結局こうなるのか。仕方ないのか」ってなんかすこしがっかりした気持が合わさってなんとも言えない気持ちになった。


一ノ瀬はじめ以外をどう描くかが問われる作品だったはずなのに……

空気に流され、空気の流れのままにゲルサドラを持ち上げ、逆に流れが変われば殺そうとし、問題が面倒くさくなったら「ガッチャマン」に頼って解決しようとする思考停止した国民を戒める、という構図そのものは非常にわかりやすい。しかしそれならば、なぜここまで一ノ瀬はじめにすべてを背負わせるような展開に持って行ってしまったんだよ……。

製作者にその意図がなくとも、見てるこちらとしては、他のガッチャマンメンバーや国民の意識と(あまりにレベルを低く描きすぎている)、一ノ瀬はじめのレベル差が大きすぎて、「一ノ瀬はじめ」に答えを授けられなければ何も出来ないような無力な印象を受けてしまうのである。




この作品は「受け身」であったり「思考停止」すること、を批判したいはずである。「一人ひとり考える事の重要さ」を訴える作品だったはずだ。少なくとも1期はそういう結論出会ったはずなのだ。その前提なくしてクラウズを肯定できるはずがない。

しかし、1期においては、終盤に「ベルク・カッツェ」との戦いにシフトが寄りすぎて、ベルク・カッツェさえなんとかすればいい、に変わってしまい、作品で描こうとしていたはずの大衆の問題とベルク・カッツェとの戦いがきっちりシンクロしなくなったように感じた。もちろん、民衆たちが、ベルク・カッツェの力に抵抗したり、少なくとも爾乃美家累はある程度しっかりした意思を持って行動する、ということは描かれてはいるし、一ノ瀬はじめとベルク・カッツェだけ別のレイヤーに位置づけるなどの工夫はされている。 それでも、やはりクラウズ(群衆)を描こうとしていはずなのに「一ノ瀬はじめへの依存が大きすぎる」ことや、クラウズについてはまだまだ議論すべきことが多すぎる、という印象はあった。

結局ベルク・カッツェは一ノ瀬はじめが抑えこむという形で解決し、なし崩し的にクラウドは受け入れられる。一ノ瀬はじめという、民衆の代表者とは違う特別な英雄に問題解決を任せてしまったことや、クラウドについて様々な問題点を放置したまま早足で一気に駆け抜けてしまったことなど消化不良感が強かった。



2期においては、そのあたりをしつこいくらい丁寧に、もう一度「自分たち一人ひとりで考えること」の重要性をといつつ、「SNS等によってみんなが結びつくことの利点」を描き、そこから私達の未来を感じさせるような何かを描写してくれるものと期待していた。

だから、わかりやすさのためにいろんな要素を中抜きにして単純化したり、あまりに民衆のレベルを低く描きすぎて、極端に戯画化された劇場を描いてみたりしていた点には不満もあったが自分の中は納得していた。 増田で「まったくワクワクしない」と書いたりはしたが、これは必要なプロセスであるとは思っていた。一の瀬はじめにばかり活躍させず、その分みんなに考えさせる、みんなに答えを出させるためには必要なことだと思って肯定的に見ていた。

1期のように「視点の高い主人公」を動かして、最初からある程度高い視点から話をスタートし、マクロ寄り・抽象よりの話を進めていくという話をやろうとすると対象を選ぶ。(「まおゆう」や「ログ・ホライゾン」に向けられた批判について、当時は理不尽じゃね?と感じたけれど、反発を感じる人がいるのは自然なことだと今は思う) だから、2期は1期で少し先走りすぎた分、メインプレイヤーのレベルを下げて、その代わりちゃんと底のレベルから拾い直して上のレベルを目指す、そういう話かと思ってた。


この作品で絶対に成し遂げられなければいけないのは、逆張り冷笑系の鈴木理詰夢の思惑をこえて、「群衆(クラウド)も捨てたものじゃない」と言わせることだった。5話から10話まで延々と群衆の危うさ、危険さをこれでもかとみせつけ、鈴木理詰夢のような立ち位置にたってドヤ顔になってるtwitterのコメントや一部のブロガーに「やられた!」「参りました!」と言わせて欲しかった。ゲルサドラが「空気」「ポピュリズム」の恐ろしさを表現するのであれば、鈴木理詰夢は「群衆を信頼する社会の限界」を示している。この2つは似ているが混同せずきちんと区別してそれぞれに応える必要があった。



だけど、つばさやスガネが「空気の怖さを知った」描写があるなど、多少はそういう気付きはあるものの、そこから「考える」「考えて答えを出す」「いろんな考えをぶつけあう」という流れツバサとベルク・カッツェの会話を境にして一気にぶった切られ、その後は一ノ瀬はじめ主導で物語が進む。



みんなで話し合ったとはいうが、青写真を描いているのは完全に一ノ瀬はじめであるし、他の人間が彼女の思考に影響を与えた、かのような描写もない。まどマギにはこれがあるから「まどかという神」の存在がかろうじて受け入れられるが、一ノ瀬はじめについてはあまりそれを感じない。 他のキャラにいろいろ質問したりなどはしているが、基本的には一ノ瀬はじめが一人で考えて一人で結論を出したような印象を受ける。 周りのキャラは、戦闘力以外で本当に必要だったのだろうか、と思う。


「対話」というプロセスがあまり感じられない。



そのため、結局この作品は一ノ瀬はじめなのだ、と感じてしまった。しかもその一ノ瀬はじめの行動がまるで「キリスト」やら「ジャンヌ・ダルク」を思わせるようなものになっている。これJJの後継者にでもなってしまうのだろうか。こうならないようにするために話を積んできたんじゃなかったのかよ……。




これでは1期の繰り返しじゃないですかヤダー。「いろんな問題を提示するまでは良かった、おそらく解決策も最終話で提示されるだろう。だが、その解決策にいたるまでの過程が一ノ瀬はじめによってすっ飛ばされてしまい、みんなの物語になりそこねる」というもの。というか、ある意味1期よりさらに後退してしまっている印象を受ける。1期は一ノ瀬はじめの誘導は会ったかもしれないが、まがりなりにも、自分の意志で立ち直った爾乃美家累の呼びかけや、菅山首相などの描写が会ったし、民衆もプラスの面を見せた。一方二期は敵が強すぎて、一ノ瀬はじめの犠牲によってしか問題は収められないのか、という無力感を感じさせる。これ、もし最終話で作品としてクラウズが認められる、のような展開になったとしても自分の中では一ノ瀬はじめからの「まだお前らには早かったか」という声が聴こえるようである。




とはいえ、まだ最終話が残っている。私の穿った見方をひっくり返してくれる展開に最後まで期待!



追記。

「あまり面白くない結末だなー」って感想を持つとしたら、それは「現実だって面白くないことばかりッス」ってことなのかもしれない

なんか気になるコメントだったのでこれは明確に否定しておきます。私はガッチャマンクラウズインサイトは現実のカリカチュアライズとしてはあまりに稚拙だと思っており、この作品がつまらないからといって現実がつまらないとは思わないです。現実はとてもシビアで理不尽だけどつまらないとは全く思わないです。「もしこの作品がつまらなかったとしたら、それはこの作品の力が足りなかっただけで現実のせいではない」少なくともそう言い切れる人に作品を作って欲しいと思います。