この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです。 ※記事を読まずにはてなスターを押して回る行為はお断りしております。

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「アプリトラップ」 ハイパー・メリトクラシーを学校に適用すると……

設定は面白いと思うのだけれど、あれこれやろうとするわりに構成がずさんすぎてもったいないことになっている作品。私としては、ハイパー・メリトクラシーが学校に適応された時の悲惨さを描くだけでも十分面白かったのだけれど……


ハイパー・メリトクラシーについて

もうこの概念も10年以上前で、今はもっと新しい概念があるのかもしれませんが……

「ハイパー・メリトクラシー
日本の近代社会は、学歴をはじめとする手続き的で客観的な能力が求められてきたという意味で、メリトクラシー的であった。それに対して、今日では、コミュニケーション能力をはじめとする独創性や問題解決力などのような、より本質的で情動に根差した能力が求められるポスト近代社会に移行しつつある。そのような社会をハイパー・メリトクラシーと呼んでいる

「ハイパー・メリトクラシー」の恐ろしいところは、客観的にはかれないものを客観的にはかろうとして、その結果、あいまいな基準で人間の存在そのもののランク付けをしてしまうことだ。

学校の成績が評価基準の場合、あくまで評価されるのはその一面だけだから、それだけで人間性すべてを値踏みされるわけではない。しかし「ハイパー・メリトクラシー」においては、その定められた基準に合致しない人間は、存在そのものを否定されてしまいかねない。ものすごく簡略化すれば「コミュ力がないやつは人間以下」「この○○ゲームに乗れないやつは虫けら」そういう扱いが許されてしまいかねない、ということだ。

実際今の世の中は「コミュ力重視」が行き過ぎた結果、そのルールに不適合とされる人間が弾き出されて、「障害」と判断されたり、「クズ」扱いされたりする。1960年以降に神経症が急激に増えたとされることと同じように「発達障害」もこうした時代の流れを受けた「時代の病」と呼ぶ声もある。
今の若者は社会不適合者より労働不適合者の方が増えている! - かくいう私も青二才でね
(細かいところでは粗が目立つのだけれど主張内容には同意できる記事。発達障害者の就労についてはいつかちゃんとした記事書こうとは思ってる)


学校という空間でハイパー・メリトクラシーが起動すると……

前置きが長くなったが「アプリトラップ」の話をする。序盤はこの「ハイパー・メリトクラシー」の恐ろしさを感じさせる描写が合って面白かった。

この作品では試験の成績や授業態度を長期的に見て評価するのではなく、「ソーシャルゲームのポイント」を多く稼いだものが評価される。評価されるということばでは生ぬるく、ランキング上位の人間は権力を得て、ランキング下位の人間を支配することができる仕組みになっている。
(この辺りの仕組みの設定がずさん過ぎてイラッとするが、そこは受け入れることとする)


これによって学校でも「ハイパー・メリトクラシー」が立ち上がってしまう。しかも、学生はいろんな法律的・倫理的制約のある営利企業とは違って、純粋なポイント稼ぎの追求だけをすれば良い。より純粋な「ハイパー・メリトクラシー」が起動してえげつないことになる。


その結果、生徒はポイントを稼ぐために、どんどんと行動が過激化していくしポイントを稼げている間はチヤホヤされるが、それができなくなった瞬間に一気に階級の底辺に叩き落とされる。昨日までイジメッ子のリーダーだった人間が、次の日にはいじめられっこに一瞬で切り替わる。

能力階級って残酷だよね。普通の学校なら勉強が出来ない奴、ですむのにこの学校だと人間として価値が無いヤツ、になる。劣った人間に従いたくないっしょ?

こうやって「ゲームの成績次第で人間性そのものまで判断される」というハイパー・メリトクラシーの恐ろしさを描いているあたりまでは非常に面白い作品だと思った。



ただ、冒頭で述べたことを繰り返すけれど、後半ではあれこれ余計な要素を詰め込もうとして失敗しているのであまりオススメはできないです。


学校はしてはならないことをしない事のほうが大事で、仕組みとして生徒に踏み込みすぎる学校の方が嫌だ。

よく試験の成績やスポーツの成績だけで評価されることに不満を抱く人がいる。特に学歴が低い生徒ほどそういうことを言い出す傾向が強いと思う。おそらく学校側に余裕がなくて、そういった要素だけで生徒を管理するので精一杯で、その他の部分で生徒をフォローできないのだと思われる。


だが私はその意見に反対する。することよりしないことに注目すべきなのだ。「学校は、仕組みとしては試験の成績以外で人の良し悪しを判断しない、それ以上の部分に深く立ち入ってランク付けをしない」ということが大事なのだ。

学校としてはそれ以上立ち入らないことで、生徒は「それ以外」の部分では自由であれる。教師と生徒との間も、その自由の中からいろんな関係を気づいてくることが出来た。個々の関係で深く繋がるためには、なおさら仕組みとしてはゆるいほうが良いくらいだ。ガチガチの「コミュ力」ランキングに縛られた付き合いなんか私は絶対に嫌だ。


教育論を述べる時、素人ほど学校になんでもかんでも求めるプラス方向で考える。それは間違いだし意味が無い。それより「これだけはやめてくれ」「こういうところが嫌だった」部分を明確にして、そこだけ取り除くように考えたほうがいい。自由さえあれば個人でなんとでも成るのだから。

もっとも、最近はいじめ対策や生徒の心のケア、しつけに至るまで素人があれもこれも学校に要求するようになった結果として教師の負担が増えすぎて、余計に質が低下し、家庭の負担も増えるという誰も幸せにならない悪循環が続いていて本当に悩ましい。


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