この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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正論(コア)とその手段の選択について

「作家になりたいっていうよりは、物語を書いているのが楽しいしできればそれをたくさんの人に読んでもらいたいっていうか…。簡単にプロになれるとは思ってないし才能とか全然ないと思うけど、でも今は物語を書いているのが楽しいの」

「いいんじゃねえの?楽しいなら」

「応援…してくれる?」

「いや、応援はしない。」

「え?」

「なんつーのかな、こういう時簡単に応援しちゃいけないんだと思うんだ。友達が不安定で保証の無い道に進もうとしてる時は。お前が(ワナビ的なこと色々)やつだったら俺も適当に応援してたかもだけど、誰かの夢を応援するのはだれでもできるけど、心配するのは親しい人間にしか出来ないよな?まだお前がどこまで本気かわかんねーし、ただラノベ書くのが楽しいってだけならいいと思うけど。本気で作家になりたい、プロになりたいって思ってるなら、無責任に応援はできねーよ。まぁもし、自作を誰かに読んで欲しいって時があるなら、そん時は俺が読んでやるよ」 

自分の知り合いが「ブロガーになって生計を立てたい」と言い出した場合

・その人が優秀でなにやっても成功しそうな人間だったら何も言わない。
・その人が成功するかどうかわからなかなければ、具体的な計画や成功の見込みを聞いてそれに
不安を感じたならとりあえずやめとけ、と言っておく。
・その人のことがどうでも良かったらとりあえず「頑張れ」と言っておく。


この話は枕以上の価値は感じてないので本人の好きにすればいいと思います。


あえていうとせっかくサラリーマンにとらわれない生き方を主張されるのだから、いろいろと他の可能性についても検討されればいいのかなと思います。

①あなた達はサラリーマンに適応出来ているからいいが、出来なかった自分のような人間はどうすればいいのか?それでも我慢してサラリーマンをやれというのか?

ここが正論だとしても、だからといって「ブロガー」を肯定するという話にはなりません。はてなブログで見かける人って、ブロガーだからしょうがないけど、「ブログで稼ぐ」という手段にこだわり過ぎてる人が多すぎる気がしてちょっと気持ち悪い。

フリーランスで仕事をしつつブログで集客やブランディングにする」とかのほうがよほど自然だと思うんですけどなんで①の正論から導き出される答えが「ブログで稼ぐ」だけになるのかよくわからない。


正論についての考え方

ところで「ビジネス発想源」というメルマガの4025回に「正論に沿う」という話があって、個人的にはこの考え方がすごく好きなので紹介しておきます。

「正論を選ぶ」というのは、明らかに会社が倒産する無理な投資であっても正論だからそれを行いなさいということではありません。正論に基づく理想どおりにやる、のではなく、正論の部分を踏襲する、ということです。「正論に従う」のではなく「正論に沿う」のです。


例えば、社長が「今は入口に5段の短い階段があるが、車椅子やベビーカーのお客様がお困りなので、スロープを建設しようと思う」と会議で発言したとします。その時に、「いやいや、それは正論ですが、現実問題として、うちにその費用が出せるほどの余裕はないでしょう」「いやいや、それは正論ですが、現実問題として、店の前のあの狭いスペースにスロープつけるのは複雑になって無理でしょう」などと反論する人が出てきます。この人たちは「理想と現実」の話をしていて、「スロープをつけるのは理想。でも、現実的に考えて無理」と考えるので、当然「理想は無理」「だから現実」と、現実、つまり現状維持を考えます。


でも、ここで社長が言っている「正論」は、「スロープをつける」ことではないのです。「車椅子やベビーカーのお客様がお困りなので、困らないようにしてあげるべきだ」というのが「正論」であって、スロープはその正論に沿った結論の一つでしかありません。


「正論」はきちんと考えるべきことであって、「理想」とは違います。だから、現実問題がどうという話ではなく「正論に沿う」形で議論をしなければなりません。資金の余裕がないという「現実」からその「正論」をいかに解決するか、スペースの余裕がないという「現実」からその「正論」をいかに解決するか、なのです。つまり「正論を取るか、現実を取るか」という話ではないんですね。それが、仕事というものです。現状維持を選ぶのは小学生でも小動物でもできますから、そんな意見は仕事をしたことにはならないのです。

 
スロープの建設はできないということになっても、「正論に沿う」ことを考えると、スロープ以外のアイデアが必要になるわけです。スロープはないが、車椅子やベビーカーを見つけたら、スタッフは必ず2人以上で駆けつけるとか、特別に搬入口からの案内をするとか、ネットショップやカタログ販売を強化するとか、その「正論」に沿った選択肢は、無数にあります。「正論」と思うものが出れば、それが答えです。その答えを実現するためにどうするか、というのが社会人の仕事であって、「それは正しい答えだが、回答はしたくない」みたいな姿勢は、仕事をしているうちには入りません。「社長はいつも、夢みたいなことばかり言う。言ってることは分かるんだけどさ」などと思った時は、その「夢みたいなこと」の中に正解があります。「夢みたいなこと」「理想ばかり」などと切り捨てず、その中に見つけた「正論」を取り出し、その「正論」の実現を考えるべきなのです。

「一人ひとりが経営者マインドを持て」臭が強すぎてちょっとうんざりするところもありますが、少なくとも「正論」というものに対する捉え方はすごく良いと思います。

正論(コアの目的)-実装(手段)-付随機能

要するに「正論」というのはこの図におけるコアの部分であって、「正論」に対する実装や付随機能に多少問題があったとしても「正論」そのものが間違ってないというケースは多いです。

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画像は“現場に効く”マーケティングの基本理論・第8回: Kanamori Marketing Officeより

他人の意見を見る際に、こういう「コア」の部分が正しいかどうかがまず気になりますよね。その上で表層部分があってるか間違ってるか、を気にすることになります。

結構ね、「いわゆる若者の意見」でもコアを掴めてる時もあるし、逆に「いわゆる大人の意見」でも表面は正しいけどコアがスッカスカだったりずれてたりすることもある。はてなホッテントリするような記事は、意外と表面の部分は聞こえが良いキレイ事になっているけれど実践部分がスカスカだったり、コアの部分がクソだなと思うことが有り、私はそういう記事がすんごく嫌いです。

話が合わない時に、どの層で話がずれているのか、って考えると面白いかもしれません。

「愚痴」や「否定」や「反発」ではなく「問い」か「要求」を

なまじ自分の「正論(コア)」が正しいと確信していると、その上の部分である実装部分や付随機能部分がずさんでも気にしないという人がいます。プレゼンテーション下手というかなんというか。


コアが正しいのに話が通じないならそれは相手がコアの段階で共有できないタイプなのか、あるいは自分の実装部分や付随機能部分がダメってことです。その見極めが大事でしょう。


ここを間違うと、実装部分や付随機能部分についてダメ出しされているにもかかわらず、「サラリーマン以外の働き方ををみとめない人間とは話ができない!」などとコア部分が否定されているという勘違いをすることもありえます。


じゃあ相手がどのレベルで反発してるのか確かめるためにはどうするかというと「愚痴」や「否定」や「反発」ではなく「問い」か「要求」をするしか無いのではないかな、と。

つまり、「あの人は話を聞いてくれない」だの「あいつはサラリーマン以外認めないやつだ」と言ったり、正論部分を繰り返すのではなく「(コア)の部分では賛成していただけますか?」と確認したり、「(実装)のところでどうすれば良いと思いますか?」と問いを投げかけてみたり「(付随機能)」についてアドバイスを求めたりすればいいと思います。

相手にどうしてほしいのかを明らかにせずただ「私は将来ブログで食って行きたいんだ」とか言われたら、少なくとも私は単純にアホかこいつって感じます。


偉そうなことを言ってますが、私は2008年頃の飲み会で何の具体的なプランや取り組みもしていないのに「オレ将来起業したいんだよね」みたいなことを酔った勢いで言ってしまったことが有ります。今思い返してもうわああああああって転げまわりたく成るくらい超恥ずかしい思い出です。その時の相手はサラッと流してくれましたけれど普通なら馬鹿にされてもしょうがない。それからいろいろあって一度起業してあまりうまくいかず、今はまたサラリーマンに舞い戻ってますがなんとかなってますが、そんなもんだと思います。

なので、自分にとってのコア部分が何であるかをよくよく考えた上で、実装部分にはその時々で自分が良いと思うものを選択すればいいんじゃないでしょうか。どちらかが常に正しいということはない。