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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「自殺島」  ネットにおいて自分が少しずつ失われていく過程

自殺島」を読みました。

島におけるサバイバルや人同士の戦いなどの部分は読み応えありますが、それとは別に私はこの島に来る前の主人公が現実から逃げてネットにのめり込み、そのネットにおいて自分を失っていく、という過程が興味深いなと思って読んでます。

第一段階 クレクレ思考(受け身姿勢、他者依存)に陥る

僕は、嫌なことや都合の悪いことがあると一方的にコミュニケーションを断ってしまう。今までもずっとそうだった。誰も、誰だって僕のことをわかって「もらえて」なかった。不毛な論争もしたくない。だったらはじめから……わかって「もらえない」から、して「くれなかった」から。

……駄目だ、同じだ…以前と。

この作品で、敵対勢力のメンバーはすべて「サワダ」に依存し、なんでもサワダが決めて「くれる」ことを積極的に望むようになっている描写が有ります。10巻まで読んできたらそのメンバーが気持ち悪く見えてきますが、私は彼らと違うと言い切れるかというと難しいでうs.主人公もこの島に来るまでは「自分」というものを喪失し、自分から何かをするという意思をもつことができず、ただひたすら相手がしてくれるのを待つことしかできなかったことが描写されています。

もともと主張が強くなく、かつそこそこ優秀だと親や友人の望み通りに振る舞うことが結構できてしまう。そしてその「強制」によって自我を保っているタイプは、誰からも命令や指示が来なくなるととたんに自分が何者かわからなくなってしまう。自分自身が自分のために何かを求めたり決めたりする思考は、訓練が必要なのでしょう。

クレクレ思考になってしまうのは、「自分の望みが叶うかどうかは相手次第」「自分がいくら望んでも自分だけではなにも手に入れられない」という感覚が強いから。

第二段階 コミュニケーションにおける逃避癖がつく

まるっきり逆だったんだ。僕は今まで「誰も自分のことをわかってくれない」「してくれない」。そんなことばかり思っていた。目の前の人間から逃げ出しても孤独になりきれなくてネットの中で寂しさをまぎらわわせていた。でも実際は自分のほうが相手をわかろうとしてなかった。「違う」と思ったり、都合が悪くなると努力して伝えようとか理解しようとせずに逃げ出してばかりだったんだ。

ネットでは「違う」と思われても、都合が悪くなっても一方的に僕からコミュニケーションを断っても大丈夫だった。繋がるも断つも自分次第。関係を修復する努力も、上下関係も、容姿や学歴も気にする必要はない。(そういう面倒なことは全部相手が気にすればいいことだ)楽だった。

そしてこうも思っていた。「自分の周りには気の合うやつがいなかっただけでどこかにはいるんじゃないか」って。今度は友達を探して毎日のように掲示板を見る。ブログやtwitterでもつながろうとしてみた。会ってもみたんだ。だけど、ちゃんと友だちになれたことなかった。目の前にいる人ともちゃんと関係を築けないのに、他で出来るわけがないんだ。

こういうタイプの人はネットでよく見かけますが、これはネットという環境がこの「言いっ放し」「応答せずに逃亡」をあまりにも用意にしてしまっているためです。こういうコミュニケーションを当たり前だと思ってしまうと、リアルでの負荷に耐えるのが極めて困難になってしまう。

第三段階 本来の自分から遠くのものに憧れるあまり、今の自分を殺してしまう

ぼくはさ、向こうでは遠くばかり見てたんだ。今まで。手の届かない高い場所、てにはいらないような眩しい物、そういったものをモニター越しにずっと見ていた。そのうち自分もそこにいるような、自分も持っているような気がしてた。スイッチを入れればいつも見れたし、だいたいわかってると思えた。

でも、違う。現実の自分はそこに行けるような要素は何もなく、何も持ってなくて、何もわかってない。そんなつまらない自分でしかなかった。モニタの向こうの世界と自分には絶望的な距離があった。その道程を埋めようとする気力はなかった、なのに僕はそこから離れられなかったんだ。毎日向こうへ行くことをやめなかったんだ。


自分を認識する行為はなるべく避けた。人とのコミュニケーションは自分を認識させるから人とも会ってはいけない。自分をリアルに認識すれば向こうへ行きにくくなる。現実も実体も邪魔だった。そして、僕はだんだんと自分の認識…存在を失っていったんだ。いや、自分から失おうとしていたのかも。

妙にネットで他人に対しては強気な発言をする人ほど、自分のことが見えていないように感じるのは、その人が意識の中で「高いステージ」を目指すがゆえに、あるいは実際の自分を嫌うがゆえに、自分を殺してしまうからかもしれません。

はてなにおいては「承認欲求」という言葉がミスリーディングになりがちですが、「承認欲求」が強いと言われている人に限って「精神的リストカッター」とでもよぶべき自傷的行動をすることが多いのは、このギャップに依るのかもしれない。現実の自分を肯定したいわけじゃなくて、捨てたくてしょうがない。だから自分から目をそらしてあたかも自分が優れた人物のように振る舞ったり、高いところから意見を言ってみたりする。そのくせ時々ふと我に戻ってひたすらに下から目線でものを言ったりする。このあたりの分裂症というかアンビバレンツな様子をするのは、承認欲求とは呼ぶのはなんか違和感ある。

ネットにおいては理想を求めたくはある。私はそういう記事を今までに何個か書いてる。ただし、ネットにおける自分の振る舞いと現実の自分にギャップが大きすぎるとかなりしんどいかなとは思う。耐えられる範囲にしておかないと、自分で、理想と比べて不甲斐なさすぎる自分を殺さなくてはいけないはめになりそうだ。


フォロワーが1000人いようが彼氏彼女親友にはつながらないのがネットのコミュニケーションと認識した上でどう振る舞うか

404 Blog Not Found:難認簡接型社会「日本2.0」へようこそ

①現代は接続開始コストがべらぼうに安くなった代わりに、接続強化コストがべらぼうに高くなった時代

②リンク強化コストのインフレよりも、リンク獲得コストのデフレの方がずっと激しかったのだし、そしてなんといってもリンク切断が解禁された。リンクが安価になり、そして「アンリンク」も含めた「繋ぎ直し」がやりやすくなったことで、「繋がる」ことの意味は質的にも変わった

問題は、変な言い方になるが若者の考えが古いままであることにある。うざい承認だったら、切ってしまえばいいのである。承認ほしさに偽りの自分を演じる必要など、ない。そして承認してくれる人が欲しかったら、まずはリンクを増やしていくこと。あなたを承認してくれる「深化OK」な「ノード」が見つかるだろう。今ある「ノード」に承認をごねるより、よっぽど楽。

結局のところ「リアル」における承認は、リアルの作法がちゃんとしてないやつには得られないのかもしれない。