頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「地の底の天上」 真作者と贋作者が一度も顔を合わせることがなくても作品を通じて誰よりも深く通じ合うラブストーリー

mangaonweb.com
b.hatena.ne.jp

「憧れは理解から最も遠い感情だよ」

憧れは恋でもあるし、恋は盲目でもある。しかも一方的な行為だ。

己の願望に目が曇った状態では相手のことは理解できない、ってことだろうか。

では、反対に理解から最も近い感情とは?

「敬意」であり「真剣勝負」ではないだろうか。そして、そういうものが「愛」ではないかと思う。

そして、この関係はどこまでも相手を必要とし、しかも耐えず変化を求める。


俺にはわかる。
オマエは俺の贋作を目にし、俺のしたことに気づいたのだ。
そしてさらなる高みへと昇ってみせたのだ
自らの限界であったはずのものを超えて。
素晴らしい…!
だが、まだだ。
まだ俺は先へ行ける。そしてオマエもまだ先へ行くのだろう。

贋作師であるオマエは、私の刻んだ線の一本一本を、食い入るように見たことだろう。

私も敬意を払うとしよう。

さあ、見ておれ。

涙がでるほど眩しい関係だ。

最初にブログを始めた時、私はこういう関係が欲しかった。

共感だの慰めだのはいらなくて、ガチで言葉で殴りあう相手が欲しかった。

http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20130111/1357870647

ニコ動以外でのほとんどのネットでは、そういった叫びはネガティヴな呪詛だ。ぼくはそういうのを見ると腹が立って本気で喧嘩をふっかけることがよくある。全力で叩きつぶそうとしたりする。だって間違っていると思うから。別に彼らの昔の自分を見て、まだ、そんなところにいるのか、こっちまでこいなんて偉そうなことを思っているわけではない。繰り返すが、ぼくは昔と変わっていない。環境が変わらないと人間は変わらない。ただ、思うのは、例え、ぼくの罵倒が、さらに彼らの頭に血を上らせカッカさせたとしても、ちゃんと彼らの叫びを無視するわけでなく切り捨てるわけでなく真っ正面から向き合う人間の存在はなにか生きている実感は与えるのではないか

そういう人を見つけたと思ってたが、結果としては勘違いだった。

向こうはそれっぽいポーズを取っているだけでガチの議論が出来るような力量がなくそのつもりもなかった。

自分は勘違いしてのぼせ上がってしまい相手に勝手に「憧れ」を抱いてしまった。

しかしその勝手なあこがれは「裏切られ」、それに怒りを抱くという不毛な時期を過ごした。

相手に実際以上の力量ややる気を求めてしまったのは自分だというのに。

ま、割りとそのことは早い段階で気づいて、そこからはネタとして消化していたが、当初の願望を認識した上で、それがかすかにも満たされず宙ぶらりんにされたのはやはり辛かった。


そんなわけで、この「妄想」にすぎない願望は諦めてしまったものの、やはりこういう関係は自分にとって眩しい憧れだった。

顔も名も知らぬ、見えない敵。
そして、同じ言語を解する唯一の友。
深い深い地の底、海の底へと潜っていくような時間の中で、
私には(俺には)、オマエがそこにいるのがわかる。

私達が出会う場所は、きっとこの地上にはない。
私達が合間見れるのは、深く静かな地の底。
そして、天上にもっとも近いところ。
そこ以外には無いのだ。だから、贋作師よ。私から目を離すな。
私を天上へ連れて行くのはオマエ。オマエを天上に連れて行くのは私だ。

これはもう…セッ〇スなのでは!? いや、セ〇クス以上の何かでしょこれ。



この関係において、相手の姿は己の妄想でしかない。現実ではない。

だが、その妄想は、実際に身近にいる人間よりも遙かにリアルに感じられる。

現実ではないからこそ、現実以上に自分に圧倒的な迫力を持って迫ってくる。

現実に関係を持たないからこそ、際限なくお互いを高め合うことが出来る。

「リアリティ」とは一体なんだったのかというと、「表現と受け手の脳が結ぶ共犯関係」のことだった

http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2015/12/04/183700

こういう関係ってめちゃくちゃ「憧れ」ません?私は「憧れ」ますよ。

今だって「憧れ」てます。



というわけで、この作品個人的にはめちゃくちゃ好きです。

不朽のフェーネチカ (アフタヌーンコミックス)

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  • 作者:竹良実
  • 発売日: 2018/07/06
  • メディア: Kindle版








世界のどこかにこういう関係があると思うことは嬉しいことだし、

そういう「憧れ」を現実であるかのように描き出すマンガというものは本当に素晴らしいと思うのです。

そういう可能性とつながりうると感じさせてくれるネットは自分にとってはかけがいのないものです。

http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2014/12/19/223217

人は自分だけの、自分のための勘違いをするために生きている。その上で、朋有り、それはインターネットの向こうの遠方から来たる、なんてことがあるかもしれない。自分にとって大切な事を、他にも感じている人がいるかもしれないと、その可能性を信じられるだけでも嬉しいことだ。自分のなかだけの小さな真実でも、それがたとえ勘違いでも、それでも人とつながりうると信じる事が許される。

それが、今の私の希望だ。


さて、文章中にあるような「妄想」や「憧れ」は、よほどの強度がない限り現実に触れた瞬間潰れます。

ブロガーは夢見がちで妄想が好きな人種ですが、たいていのブロガーの妄想や憧れは現実に触れた瞬間力を失い、消えてなくなります。

「ネットでは怖い人だと思ってたけど現実ではいい人」っていうのは、妄想や強度といったものが現実にすぐに負ける程度のクッソつまらない人間でしかないということです。 ネット上の仮想人格やキャラクターなど、その程度のフラジャイルなものでしかないことが多い。

でも、だからこそ、そのことを自覚した上で大事にしないとダメだな、と。