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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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レシプロシティ(相互性)について

適切な強さの言葉を選択するというのは、本当に難しい。 - いつか電池がきれるまで
トラックバックありがとうございます。

私もfujiponさんと根底では意識を共有できていると思います。

①友人同士の会話や、特定のコミュニティ内で約束を共有している状況以外において「ネットスラング」を多用したり、そこでの常識を受け手に押し付けるような振る舞いはよくない

②簡単に人が書いていることを「否定」するのをよしとする空気が蔓延し、書き手の心をくじくような状況が多発してしまうのは憂うべきことである。

この2点については、すでに私も書いているように同意見です。



その上で、読ませていただいて感じたことを2点書かせていただきます。

1 fujiponさんの問題意識は「言葉の強弱」ではなく「集団」のマイナス面ではないでしょうか

記事を読んだ時に思ったのですが、

fujiponさんは、言葉の強さについては「難しい」とはおっしゃりつつも、自分がそう思ったのであれば強い言葉を使うことについてはためらわない、という立場であると感じました。

ナイーブすぎる、という声が聞こえてくるけれど、たしかにそうかもしれません。それでも、「言う側がイメージしている言葉の強さと、受け手に与えるダメージは、必ずしも同じではない」のです。「そのくらいの悪口、たいしたことない」というのは、言う側の主観でしかない。

ということから、「書き手がどう思ったとしても、受け手が傷つくようなことや不快なことは言うべきではない」という主張になるのかなと思ったのですが、そうではないですよね。

僕は、このエントリで、あえて「引きずりおろそうとする力」という「強い言葉」を選択しました。それは「現実に起きていることに対して、強すぎる表現である」と感じた人がいることは理解できます。訂正する気はないけれど、不快にしてしまって申し訳ない。強い表現のほうが、目に留まるのではないか、という気持ちもありました。
ただ、僕自身には、あの言葉が「妥当」だったのです。ネットで長年罵声を浴びせられたり、浴びせられている人を見たりしていると、「これって、いったい何なのだろうなあ、という気分になってきます。

fujiponさん自身、自らが妥当だと感じたならば、「それが受け手を不愉快にさせてしまう可能性があったとしても使わざるをえない」ということをこの記事で書かれています。

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ということは、「自分がその表現が妥当だと感じたのであれば」そういう表現を使うこと自体は否定していませんよね。自分の強すぎる表現が批判される覚悟を持って発言する限りにおいてはやむを得ないことだという考えで結論が出ているのかと思います。


となると問題なのは「場の空気のせい」にしたり、「みんなが言ってるから」ということで、自分の発言責任を自覚せずに汚い言葉を使ってる人たちだ、ということではないでしょうか。

「自分のひとつのコメントでどうこうってことはない」「ネットでは批判されることがあるのは当たり前」という「逃げ道」ができあがっている。僕は、そういうのが大嫌いです。「覚悟の上で人を傷つける」のではなく、「そんなつもりじゃない」人たちが、数の力にまかせて、とりかえしのつかないことをやってしまう。
それは、ものすごく不幸なことであり、「集団」のマイナス面ではなかろうか。

なので呼びかけとしては、「ネットってすぐ人を否定するから怖いわー」という話ではなく「なんとなく皆が言ってるから怖くないみたいな雰囲気になることあるけど、一人ひとり自分で責任もって発言しような」とか「記事を書いてる人は一人。それに対して集団の中に隠れて一方的に石を投げつけるような振る舞いをしているお前たち一人ひとりは恥ずかしくないのか?」という話なのかな、と。

なんだかそのあたりが曖昧だったのでちょっと気になりました。


2 私は読み手だけじゃなくて書き手にも「逃げ道」があると思っていて、最近書き手があまりに安易にこの「逃げ道」にすがる現状があまり好きではありません

fujiponさんは「ネットに否定や批判の声が強く出ること」の方だけを強調されているように思いますが、私はやはりこういうのは相互的なものだと感じています。


なので、私は批判されるような記事を一度ならともかく何度も書いてる人はやはり何かしら問題点を抱えていると考えています。それについて「とにかく批判する側に問題が有る」という点だけを強調するのは、書き手にとって過保護すぎる感じがするし、アンバランスな議論になると感じてます。


言いたくないですが、「批判くらいしかする価値の無い記事」が最近よくホッテントリに上がってると私は思います。ジバニャンとかジバニャンとか。 私はもうそういう記事は読まなくなりましたが、読んだ人が文句を言いたく成る気持ちが「その場の空気によるものではなく、個々人が本当にそう思っているのであれば」そこで批判するな、という形で蓋をするのはかえっていびつな気がします。 ここで「表現に気をつけよう」というのであれば、そういうガイドラインを提示すべきだと思います。今回fujiponさんの記事で言うのであれば、表現については「はてな特有の、スラングや罵倒成分強めな表現を使わない」という点を除いては「難しいけれど自分が考えてそれが妥当だと思うならば強めの表現でも問題ない」という話かと思います。私はその程度で十分だしそれ以上はとやかくいうべきではないかなと思いますがいかがでしょうか。

対象が致命的に傷つけられても、「そんなつもりじゃなかった」「死ぬことはなかったのに」「自分のひとつのコメントでどうこうってことはない」「ネットでは批判されることがあるのは当たり前」という「逃げ道」ができあがっている。
僕は、そういうのが大嫌いです。

私はこの「逃げ道」が書き手にも出来上がってるのと思っていて、それが少し嫌だなと思っています。


言うまでもないですが書き手が変な記事書いたから気軽に叩いて良いというわけではない。ただ、書き手は書き手でもっといろいろ気をつけて書けばもっといい結果になる、ということを意識して欲しい。自分が批判された時に、そういう批判から向き合うことを棚上げにして、「はてなってそういう場所だから」「ネットには引きずりおろそうとする雰囲気があるから」という便利な話に逃げ込まないでほしいです。 最近そういう言い分が安易に賞賛されててすごく気持ち悪い。


もちろん書き手の方が読むだけの人間と比べて負担も大きいし、逃げ道も広く確保されるべきだと思うのですが、この逃げ道があるおかげで、いつまでたっても同じような記事を書いては、文句が言われたら「はてなやネットへのヘイトを貯めこむ」という悪循環がおきているのはなんかもったいないなと。


足りないところや問題点はあるのだから、「よい批判のサイクル」「応援される現象」が発生する人の記事なんかを見て、こういうところを心がけていこうよ、って話ができればよいのかな、と思ってます。 つまり書き手、読み手の関係は相互的(レシプロシティ)であって、それぞれに課題はある。両者ともに気をつけるべきところは気をつけてレベルアップしていってほしい。そしていざというときはちゃんと議論ができる人でいて欲しい。



こんな感じなのですが……なんで私はたいした書き手でもないのにこんな上から目線なんだw





最後に、記事の感想ではなくfujiponさんという個人に対する感想です。

fujiponさんの、火の粉を浴びると予測した上でそれでもどちらか一方に立とうとする振る舞いはすごいと思う

多分fujiponさんはそういうことはじゅうじゅう理解されていると思います。そしてその上で「あえてどちらか一方に立つ」「あえて弱い側に立つ」ということを選択されているのだと思います。
*1

【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ|青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編

対立する意見があるなかで、どちらか一方に寄り添った意見を書くと、すぐに人がわらわら寄って来てあーだこーだといろんなことを言って騒がしいですよね。私は批判よりもこの騒々しさが苦手です。そのため「炎上」というか「自分で意見を書くのはめんどくさいけどなんか一言言いたいだけの人たちの相乗り場所」として自分の記事が利用されるのとかまっぴらごめんなので、ついついどっちかの立場にたつことを避けてしまいがちです。

(私の記事、どっちかの立場でものを言いたい人間には使いにくいだろ?やーいやーい)

なので、fujiponさんが長い間、たとえ火の粉を浴びるとしてもいろんな問題に対して立場を明確にして積極的に言及し続けられていることは本当に尊敬しています。


僕も疲れているのかもね。

多分こういう立ち回りはすごく疲れると思いますが、無理をなさらず続けていってください。
いちファンとしてこれからもウォッチし続けたいと思います。

*1:ちゃんとわかった上でやってるのがどこぞのはてなアイドルとの大きな違いですね