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人と人が分かり合えないのは「スタート地点」であって、そこからどうするかを考えるのが「人間」の仕事

※過去記事(2014年1月30日)の再掲。

昨日読んだ本にこんなことが書いてありました。

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昔似たようなこと書いたなと思って懐かしかったので引っ張り出してみます。

ちなみに長いし上の画像で書いてることが全てだと思うのでここから先は見出しだけぱっぱと読む程度にしてください。

アウトプットは「何を伝えたいか」がスタートであり、「どう伝わったか」がゴール。

以前にアウトプットとインプットの違いについて書いたけれど、アウトプットの中をもう少し詳しく見てみると「アウトプットにも2段階(行動も含めると3段階)あるよね」というお話です。例のごとく長いけれど、いいたいことはタイトルがすべてなので、後は興味がある人だけお読みください。


まず「何を伝えたいか」がなければスタートすらできない。

この点をよくよく考えることはもちろん大事。すごく大事。でも、これは本当に大事だけど、「すべて」ではない。これはあくまで目的を示すもので、これを考えただけで実際に目的が達成できるわけではない。目的地にたどり着くためには、ちゃんとそこまで移動しなくてはいけない。ここから、言葉を介して、伝えたい相手に「どう伝わったか」まで考えるのが遠足…じゃなくてアウトプット。


自分へのアウトプットが「考える」、考えたことを他人向けのアウトプットに整えるのが「伝える」

言い換えるなら

①「何を伝えたいか」を作りこむのが「考えること」であり
②「どう伝わったか」の結果について、少しでも望み通りに近づけるのが「伝えること」になる。

で、この2つはほぼ間違いなくずれる。一致することはまずない。「何を伝えたかったか」の部分は一人だけで完結する行為だが、「どう伝わったか」は自分と相手の共同作業だからだ。いや、むしろこちら側では受け取る相手が主体で、伝え手である自分はそれをサポートするしかできない。しかも、この「伝える」という作業にはその場だけの関係ではなく、過去の文脈や相手の知識の程度などいろんな変数が関係する。

大事なことなので二回言うけれど、

①「考える時」、つまり「何を伝えたいか」を決める主体はもちろん自分だ。でも
②「伝える時」、つまり「どう伝わるか」 を決める主体は相手だ。

最初から「何を伝えたかったか」が100%伝わることなんてないと思っておいたほうがいい。


まずは「何を伝えたいか」を一生懸命「考える」ことが大事

池上彰さんは、「伝える力」において、まずは自分が言いたいことを自分でしっかり理解することの重要性を説いています。自分で理解できていないことが相手に伝わることはない、と言い切っているほどです。それほどまでに、まず自分自身に対してしっかりアウトプットすることが重要だということですね。



また「高校生向けの」文章読本にこういう話もあります。

良い文章とは

①自分にしか書けないことを
②だれが読んでもわかるように書いた文章

単純な「禿同」とか「氏ね」という反応は、確かに②は満たしてはいる。しかし①を満たしていない。
反応の元となった表現を行った「話し手」には価値はあっても、その反応を行った「返し手」の方にはあまり価値が生じない

ぶっちゃけるなら、はてブでつまらんコメントする奴は、話し手にとっては何の価値も無いってことです。


「話の価値」を作りこむのは「考える」段階である

文章って「自分固有の領域」「一般常識」「相手固有の領域」と
「自分の言葉」「ありきたりな言葉」「相手の言葉」のマトリクスで分類したら面白いなと思っている。
今回は簡略化のために「一般常識」と「ありきたりなことば」を除いて考えるとこんな感じかな。

1 自分固有の領域のことを自分の言葉で書く(私のブログはこれか、一般常識のまとめ、程度)

2 自分固有の領域のことを相手の言葉で書く(上で書かれている良い文章はこれのこと)

3 相手固有の領域のことを相手の言葉で書く(海外の論理をそのまま持ってくるようなパターン)

4 相手固有の領域のことを自分の言葉で書く(他人についてよく知らずに首を突っ込むパターンなど)

伝えたいことは、たいてい「自分固有の領域」だと思うけれど、これって自分にとっては自明のことだから案外言葉にしにくい。それをしっかり明確化するのが大事になってくると思う。バズりたいなら互助会やるより「2」を意識したほうがいいよね。


「考える」段階では、自分の定義で考えてもいいし、自分なりの言葉を使ってもいい。「伝える」ときに相手がわかる言葉で伝えられるのであれば。それが出来ないなら自分定義の言葉でしゃべる奴はただのコミュ障

「定義すること」と「定義した言葉でコミュニケーションすること」は区別しよう - 発声練習

イケダハヤトさんが書かれた記事"「定義」は個人的なものである:辞書の定義を信じる残念な人たちの主題"は「物事について他人のいうことを鵜呑みにせず自分で考えよう」だと思います。ですが、以下の主張には「じゃあ、どうやって言葉を用いたコミュニケーションをするの?」と素朴に思います。

「定義は個人的なものである」という境地に至った人からすると、「定義は辞書によって与えられる」と考えている人の話は、退屈でなりません

以前にも「定義すること」と「定義した言葉でコミュニケーションすること」、「伝えたいことを多くの人が理解できる用語を用いて説明する」ことをごちゃまぜにして、しかも「定義」という言葉を「概念を区別する行為」「概念を区別する説明」「辞書にのっている用語の意味(多く受け入れられている定義)」の意味でフワフワつかっている議論を読んでモヤモヤしたのでこのエントリーを書きました

個人的には自分の頭の中で、どんな言葉を使って考えようが「考える段階」であればそれは自由だと思うんですよね。

もっとも、みんなが共通で使ってる言葉で考えるほうが良いと思うんですけどね。なんのために定義というものがあるのかといえば、そういうものを定義したほうが議論しやすいし、インプットの効率が良いから。にもかかわらず、あえて自分の言葉や自分の定義をつかう必然性がありません。だって、そんなことをしても、インプットの効率が落ちるだけだし、どうせ「伝える」ときにみんながわかる言葉を使わなければきちんと伝わらないのだから手間が余計にかかるだけなんじゃないかなって思うんですよね。 

「最初からまともにインプットする気も伝える気もない」のか、「単に自分の有利に話進めたいだけ」なのか、それとも「自分が言いたいことに適する言葉を選ぶ労力を惜しみ、その負担を相手に押し付けてるだけ」なのか知りませんが要するにコミュニケーションする気がないワガママちゃんですよね。って考えてしまう。


「考える」ことは好きだけれどそれを「伝える」の部分で全く努力をしない、というのは少しもったいない気がする

良い文章とは
①自分にしか書けないことを
②だれが読んでもわかるように書いた文章

に戻ると、「考える」の部分が秀逸なのであれば、①を満たすからそれはそれで価値はあるのだと思います。ただ、受けては結構②を大事にします。②をおろそかにするのはちょっともったいないと思います。

文章でその辺りの努力をするのが面倒くさいなら、いっそ行動、実践というアウトプットで勝負するのも一つの手でしょう。「やってみて、その姿を見せる」ことができるなら、あるいはその体験から得られた話をそのまま伝えるだけでも強いと思います。「自分が正しいと思うことを実践して、結果を出している」という部分の価値は高いと思います。

伝え方にはいろいろ工夫の余地があると思いますがいずれにせよ「伝える」の方を意識してないとかそっちは軽視する、というのはもったいないかなと思います。


「考えること」が楽しいのに比べると「伝えること」は面倒で無味乾燥に感じるし努力しても望んだ結果にならないことばかりでやってられねーって気分になるかもしれないけれど……

「考える」の部分は結構面白いのに「伝える」の部分で努力するのを極端に嫌う人いますよね。なぜそのような努力をしなければならないのか、と。俺がどのように書こうが勝手だ。 書き方にケチをつけるな。ちゃんと行間を読め。 誤読する奴が悪い、という主張を繰り返す人。
最初に記事を書いた2014年の段階でそういう人すでに多かったですが、最近はさらに顕著な気がします。

気持ちはわかります。私も「そういうのめんどくせーなー」とか「大体あってりゃいいじゃん」って思う。「わかる人だけわかってくれればいい」とか、他の人がどう思おうが「考えてることはあってるんだからいいだろ」って開き直りたくなることって結構あります。

「どうしても伝わってほしい相手」とか「誤解されたくない人」がいなければ、そもそも「考える」だけで満足だったりします。自分だけがわかっていればいい。文章にするのは一応形として残しておきたかったからだけ。後で自分が読み返してわかれば、他の人からどう思われようがかまわない。まぁ誤解した人に絡まれるのちょっとめんどくせえな、くらいの気持ちになるときも有ります。

あるいは「うまくいえてなくてもわかってくれる人がいる。この人たちだけわかってくれていればいい。この人たちがわかってくれる程度に丁寧にかけばいい。初見の人が見てわからなくて文句を言っても知ったことか」という心境になることもあります。実際に、それ以上を求めると大体失望することになると思ってます。

とにかく文章は「努力しても、伝えたい人にすら伝わらない」ということが多い。そういうときに「伝わる」ことへの期待が大きすぎるとほんとむなしい気持ちになります。普通の人は、慣れてくると自分の伝える努力と、伝わるかどうかの結果のバランスが理解されてくるのですが、その前に「ネット疲れ」とか言って退場しちゃう人いますね。「こんなにむなしいなら、俺は伝えるための努力などしない」とサウザー様論法に走る人がいても責められないかな、と正直思ってしまいます。少なくとも、常に「伝える」ための最大限の努力を求めるというのはナンセンスだなと。


どの程度「伝える」ための努力をするかはその人次第。ただし、努力不足が原因で伝わらなくても怒っちゃだめだし、そこで「人と人は分かり合えない」と言って投げ出していいのか?

「伝えるのめんどくさいよね」っという話をしたので、次は「それでも努力しなきゃいけない理由」を書くべきなんでしょうが、そんなものはありません。目的あるなら努力すればいい。目的がないなら努力しろっていってもどうせしないでしょ?

努力する義務や決まりなんてないです。「伝わらなくてもいいなら」努力しなくてもいい。どの程度努力するかは、その人が誰に、どの程度伝わってほしいかと思うか次第。だから、伝わってほしいなら努力するし、伝わってほしくないなら努力しなくてもいい。ただ、明らかに努力が足りなくて伝わらなかったときに逆切れするのはだめだし、「人と人は分かり合えない」なんて言ったところで全くすっきりしません。

なぜならそんなことはみんなわかっててそれでもコミュニケーションを取るために努力や工夫をしているからです。「人と人は分かり合えない」なんてのはスタート地点であって、そこからようやく話が始まるのです。そこで立ち止まってる奴はそこから先に進めなくて終わりです。それでいいのか、それとももっと先に進みたいのか。そういう話ですよね。




「伝える」ことのはじめの面倒くささを乗り越えたところに対話とか蓄積が生まれる時がたまにあって、それはとっても嬉しいなって

じゃあそのうえで、なんで伝える努力したほうがいいと思うかというと、そりゃ、そうしたほうがいいことがあるからです。少なくとも私にとっては。めったにないけど伝わったらうれしい。伝わるような人がいることがうれしい。なにより、はじめはめんどくさいけれど、一度伝わったら、その相手は結構自分の努力を認めてくれて、次からは少しくらい伝え方がへたくそでも、読みとってくれたりする。定期的に自分の意見に耳を傾けてくれたりする。そうやってある程度蓄積が生じたら、気軽にコミュニケーションがとれるようになる。

この「だんだん楽になっていく」「だんだん楽しくなっていく」という感覚を知っていると、そういう状態になるために最初だけは、ちょっとめんどくさいけど努力しようかな、と思ったり思わなかったりするという話なのでした。





ちなみに昨日読んだ本はこちら。面白かったのであと何回か内容の紹介で記事かければいいなと思ってます。