頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「不幸」はそれを振りかざすと理を曲げてしまうほどに強力である

いざ書き始めるとダメだなーというわけで勢いでもう一記事。

パンプキンシザース20巻」読みました。 

「いじめっこ(戦勝国)」に対する「いじめられっ子(敗戦国)」の長い間の恨みが爆発したテロ事件や、帝国と周辺国の勢力関係の変化、技術革新の凄まじさなど様々な要素が絡み合った物語もようやくクライマックスです。

この戦いの中で、ミュゼが止めるのも構わず自ら心身を削って戦おうとする主人公ランデル・オーランドの描写はひたすら痛々しいとともに「人 対 戦車」という正気を疑うバトルは圧巻です。


本当に見どころ満載の話なのですが、やはり「不幸」に対して、人間はどう向き合えばよいのか、それをどう伝えればよいのか、という悩み対して扱っているのが良いよね。「マギ」の魔法国家マギノシュタット編もそうだったけれど、私はこの問題について考えさせてくれる作品がとても好きです。

不幸な人間としては、不幸であることそのものよりそれが分かってもらえないことのほうがつらい

善人面でいうやつがいる。「仕返しなんてしたら、お前をいじめた奴らとおなじになるぞ」って何言ってんだ。その「同じ」になりたいんじゃないか。同じになってそこからやっと始まるんだろうが。友達ってのは対等なもんだろうが。

いじめられっこが、いじめっこに仕返しするとしたら一番知りたいのはいじめっこがその時にどんな泣き言を言うのか、だろ?

「狂人」になりますか?それとも己が不幸であることを諦めますか? - この夜が明けるまであと百万の祈り

およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。

本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ

不幸を抱えた人間が不幸を伝えることは難しい。たとえそれが伝わったところで、補償や救いを求めることは難しい。それは自分でむきあって、自分や身近な人間だけで解決しなさいと求められる。

さらに、不幸な境遇の人は、本人がそのことを忘れようと思っても周りがその境遇であることを「まなざし」で押し付けてきてなどもそれを思い起こさせられる場合もある。自分の意思だけで逃れることも難しい。

これが人間社会における「不幸」というもののままならなさである。

自分や身近な人との助け合いだけでは耐え切れなければ宗教に救いを求めたり、薬や二次元に走るしか無い。そのくらい「不幸」は自分をむしばむ。

しかし、受け手としては他人の不幸を一定以上受け入れる訳にはいかない

「先祖が戦争に負けたという、自身に責がない理由による迫害。それは確かにいかんともしがたい不幸かもしれんな。だが、その不幸を汲んでやることはできんのだ。」

不幸を競い合う状況になるのは不毛であるがそれでも人は己の不幸を訴えずには居られない

そうでなければ、人は不幸自慢を始める。自分はこんなにも不幸だからと不幸を立てにしようとするものもいれば"お前より不幸なやつをしっている、そいつはもっと頑張っている"などと、不幸の格付けや、己の不品行を赦される利権を定めたがる奴もいるだろう。テロや殺人などの凶行に対して、その行動力を境遇の改善に使えばよかったのにと得意気に語るものもいるだろう。人の情報や柵が、まるで天秤の分銅のようにさも移し替えられるかのような口ぶりで。

だが、それらもまた揶揄すべきではない人として当然の反応なのかもしれない。不幸な生い立ちには、それに釣り合う幸せな結末が用意されている「べき」だと願ってしまう。苦に対する社会保障のようなものを求めてしまう。それは自分だけではなく他人に対してもそうだ。それが、人の持つ優しさであり軟弱さであり性というものではないか。

「いつもいつも、自分だけが被害者だと思うなよ。人を傷つける権利があると思うな」 - この夜が明けるまであと百万の祈り

「ヒラリー・スワンク in レッドダスト」 - この夜が明けるまであと百万の祈り

などでも書いたことですが「不幸」であることを伝えるだけならともかく、だからといってそれに対して代償を求め出すとキリがないのです。それでも人は明確な補償や償いを求めずに居られない。



人が優しくて、世界が有限だからこそ「不幸」は審判される。審判されるからこそ、不幸をアピールせねばならなくなるという悪循環

このような性を持つ人間にとって、「不幸」というものがもつ影響力は絶大だ。だからこそ、人は不幸をにじませた者を見ると訝しんでしまう。「それ」は本当に特別な不幸なのか、と。救済は無限ではない。全ての申告される不幸に配分するだけのリソースはない。だからこそ、その審判は絶対に必要だ。騙りは排除せねばならなくなる。

だが、そんな必要悪としての推し測りの眼差しが、お前たちから「普通」を奪っていくのだろう。まこといかんともしがたいな。

人が「不幸」か「不幸でないか」から逃れるフィールドとしてネットを活用したい

だからこそ安心するが良い。機甲戦にはそんなもの(不幸かどうかが力を持ち、それ故に不幸の推し量りが発生するままならない状況)などというものは無い。
悲しみで命中精度が上がるわけでもなければ、怒りで貫徹力が増すわけでもない。同情もない、訝しみもない。生い立ちなど関係ない。ここにあるのは、鉄と火薬の理だけだ。

貴様らの理不尽な不幸に対する怒りや復讐心っ認めもしないが否定もせん!そんな陰湿な柵など、機甲戦には無い! 清廉潔白たる鉄と火薬のちからを持って、今殺してやる!

多分戦争を求める人って、こういう「正々堂々」みたいなのを求めてるんだろうね。*1

でも、これ戦争以外でもいろいろ手段有るよね。

格ゲーでもいいじゃんと。ネットでもいいじゃん、と。だから私はネットにおいて不幸自慢なんて絶対にしたくない。

ネットで不幸自慢アピールすることは、同情と同時に「お前は不幸なんだ」という眼差しを現実より強くひきつけることになる。リアル以上にその押し付けは強くなるだけだ。そこまでして得られるものは有るのだろうか。私にはわからない。私にはその覚悟がないから、ネットでルサンチマンだの不幸アピール撒き散らすのは無理だ。

私はネットではそういうネットのネガティブな部分をできるだけ切り離して、良いフィードバックが得られるようにしたい。

*1:とはいえ、この話でも戦力差・技術差が圧倒的だから絶対に勝てないんだけれどね。戦争やってももともと鍛えてない奴はより理不尽な状況で惨めに死ぬだけなんだけどね