この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。最近TED聴き始めました

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「嫌い」「怒り」というネガティブな感情こそきちんと「私として」向き合ったほうが良いかもしれない

http://kopelani.hatenablog.jp/entry/2016/04/18/133302

読みました。正直記事の内容としては、思慮の浅い人のありきたりな偏見でありますが、この程度の偏見は当然誰の人にもあって良いものだと思うので「あーそうですねー」くらいで流して良いものでしょう。細部についてのツッコミは他の人がやってくれてるのでお任せします。 


虚構新聞を叩くならアンサイクロペディアも叩けよ」メソッドはアホまるだしだからやめような……

というわけで記事書いてる人はいいんだけど、ブコメがアホたくさん湧いてますね。一応この意見だけダメ出ししておこうかな。

オタク擁護が湧いててキモい。おまえらがDQNて呼んで馬鹿にするのと何が違うの?中身子供でも体格が大人なうえにまともにコミュニケーションとれなさそうな人と接するのはDQNもオタクも恐怖感じるのは同じ。

オタクをDQNに言い変えていたらブコメはどうなっていただろうか

喫煙者やタトゥー入れる人間に同じ態度取れるならブコメの説得力も上がるんだけどね

「おまえらがDQNて呼んで馬鹿にするのと何が違うの?」そこは同じでしょう。ただ、それは人々がDQNに対して偏見を持っている行為を批判すべきであって、同様にオタクに対する偏見も批判すべきですね。後半にいたってはまさに何が問題であるかを全く理解しておらず、その問題通りの主張を繰り返す始末。この人はどの問題でも同じように雑なくくりで人を批判することを正当化しようとするのでしょうか? 自分が批判された時に「他の人だって赤信号渡ってるだろうが」って言うならまだ可愛げがありますが、この人はそれですら無いですよね。
 
こういう理屈を「虚構新聞を叩くならアンサイクロペディアも叩けよ」メソッドと私は勝手に読んでます。「おまゆう」はギリギリ許容範囲だと思うけど、これはダメでしょう。こういうの「ちゃんとした理屈」だと思ってドヤ顔で使ってる人、もうちょっと考えてから発言しような。それはレトリックではあっても、論理的に筋が通ってる話じゃないよ?他の人が使ってるから真似してるだけならやめときましょう



記事やブコメよりも、記事についたコメントが良い感じ

id:barbieri
オタク嫌いでも別にいい。キモイオタクがいたからオタク全員気持ち悪く見えるのも別にいい。仕方ない。
でも偏見よくないと思ってるんだったら「世間に偏見されても仕方ない」みたいな逃げの一手はダメなんじゃないか。
自分で背負ってくださいよ。


①嫌いという感情は別に否定しなくても良い

②ただしそれは自分で背負え

というシンプルなメッセージ。言われてみればそうだな、って思うけど意外とできてないぞ私!



ついつい他者に対してネガティブな感情を持ってることをやましく感じてしまいがち

「人を嫌う」とか「怒る」という感情についてやたらと罪悪感を感じたり理屈をつけて正当化しようとしたり。
「嫌い」という感情や「怒り」の感情をストレートに表現するのを避けようとする人は少なく無いと思う。

私も場合によっては抵抗を感じます。

でも、ネガティブな感情ほどちゃんと向き合ったほうがいいかもしれないですね。

「ちゃんと嫌う、ちゃんと怒る」これ大事。


「ちゃんと嫌う、ちゃんと怒る」は、感情をぶちまけることではなくネガティブな感情に振り回されなく成ること。

「ちゃんと嫌う、ちゃんと怒る」というと感情をぶちまけるのを推奨してるのかというと勘違いする人いるかもですがそうじゃないです。

まずダメな例を上げます。例えばとある女性の記事を読んで怒るのは良い。ただそこで怒りに振り回されて、相手を「ババア」呼ばわりしたりミソジニー垂れ流す。こういうのはダメです。そういうのは感情を制御出来ないから迷惑です。

そうではなくて「自分が何に怒っているのか。それはなぜか。自分が何が正しいと思っているのか」あたりをちゃんと整理しようということです。そうすればある程度は制御できるようになる。何度「怒る」対象に向き合っても、自分がなぜ怒っているのかすらわからず振り回されるだけではなくなり、対応はできるようになるはずです。

これは怒る時だけでなくて「嫌い」についても同じです。こちらは「生理的嫌悪感」みたいなものも大きいのでより難しいと思いますが、それでも一度ちゃんと認識したほうがすっきりすると思います。 意外に「嫌いな点」が明確に見えると、その人のそれ以外の部分が見えてきたりします。 さすがに嫌いな要素のみの塊という人は少ない。でも嫌いなところが具体的に見えていないと「漠然とその人が嫌い」という状態になってしまい、つきあいようがありません。そうならないためにも、「私は、この人の、こういう点が嫌い」というのはあえてちゃんと理解したほうがすっきりします。

「◯◯を嫌いなのは私である」「ほかならぬ私が◯◯を嫌いなのだ」という所から目を背けない

で、その時に大事なのは「◯◯を嫌いなのは私である」「ほかならぬ私が◯◯を嫌いなのだ」という所から目を背けないことかもしれませんね。

上の記事だとたとえばこういう言い方をしている。これはダメなんじゃないか。

何をどうしろという話じゃない。ある一定の偏見があるのはそれなりの理由があるんじゃねーかなーと。関わる場所が無いから今までは別に気にしなかったけどね。今私が関わるのはその仮面ライダーの時だけだし。良い人ももちろんいるんだろうけどね。周りに気を遣えバカという話じゃなくてね、こういう人って損するよなぁというお話。

こういう言い方をしてしまったら、多分ちゃんと理解できないと思う。自分から語る対象に対して距離を取ってしまっている。この距離では「私」として見ることが出来ず「視点」がぼやけてしまう。「遠くから見ているからぼやけている」「理解しようにも相手の言い分は聞こえない」という距離からものを見て何かを考えて語っても、ぼやけた意見しか出てこない。これでは多分書いた人もすっきりしないはず。


せっかく「嫌い」と向き合うのであれば一度積極的に「嫌い」という想定で自分が気に入らないと思う点と向き合ってみようじゃないか。すごくしんどいと思うけれど、「ぼんやりと嫌い」という状態の存在は、ぼんやりしてるがゆえに、自分の嫌いという感情とくっついて思考を汚染するので一度エイヤで自分のネガティブな感情と向き合ってみれば、意外とすっきりするかもよ。




……というのが私の主義ですが。こういう作業は公でやらないほうがよいかもしれませんね。

「なんでもネットで語ろうとする」ことによって、感情との向き合いが難しくなるのだとしたら、やはり公のネットの場には書くべきではないことも存在するのかもしれません。


「きちんと嫌う」のがどういうことかわからないから、「嫌われること」も無性に怖くなるのだと思う。

みたいな話も考えてましたが、良いネタが思いつかないのでここはまた思いついた時に別記事で書きます。





読んだことあるけど正直この2冊よく理解できてなかったのか何書いてたのか覚えてないので再度読みなおしてみて、面白いところあったら共有したいと思います。