この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。最近TED聴き始めました

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許しは「自己正当化」ではなく「自己肯定」のために

悪行がなされなかったかのように振る舞うことは赦しとは違う。出来事を忘れることは赦しとは違う。容認や弁護も赦しとは違う。逆に赦しとは、「そのような不当な行為は間違っていると認め、再び繰り返すべきでないとすること」である (「アーミッシュの赦し」より)


トマトブロガーの人が、自らの行為を社会への復讐かもしれないといいながら色んな物をDISりまくり、そのことはすっかり棚に上げて世の中には「許しが足りない」「寛容さが足りない」「批判する人は可哀想な人」などと言っていますね。(魚拓

同じ「許し」という言葉を使っても、誰がいうか、どう使うかでこれほど意味が違うのかと驚きます。

トマトブロガーさんが言ってるのは「スルー」「放任」「責任の放棄」みたいなニュアンスにしか聞こえません。正直、彼のいう「許し」という言葉は自己中心的になろうだとか、反対意見にレッテルを貼って封殺したいっていうことを「粉飾して」言ってるようにしか聞こえず、全く心に響きません。こういう自己中を肯定するような似非インチキ定義の言葉を使われるのはとても気持ちが悪い。すでに若さが失われてもう老害じみた振る舞いをしているにもかかわらずいつまでたっても自分のことを青二才って言いはって若者の特権を主張するようなものです。 

それでも、こういう言葉を使えば、もっともらしいことは言える。言葉はそういう誤認を引き起こす効果がある。だからこそ自分が「大事な言葉」だと思うことについて、まともな定義もせず一見外面の良いことをいう人を見るとスゴイ抵抗感を感じます。


じぶんの中ではトマトブロガーさんのいう「許し」と世間一般で語られる許しというのはエクスカリバーエクスカリパーくらい違うものについて語ってるように思います。
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私自身よくいろんな言葉の使い方についてツッコまれることが多いので、これは気をつけたいところですが、あんまり言い過ぎるとなんの言葉も使えなくなってしまう。だから、最低限「自分を目的を自己正当化するトートロジーが組み込まれおり反論不可能」な言葉の使い方になっていないか」ということだけチェックする、程度に留めたいと思います。 トマトブロガーさんの「許し」は自己正当化のトートロジーが組み込まれた反論不可能な言葉になっています。こういう言葉の使い方をみたときに「これは何かおかしい」と感じられるようになっておきたいですね。


批判的な検討を経ない許しはただのスルーや放任、関係の拒否にすぎない

私は「許し」という言葉と、その言葉に込められた意味を考えることはとても重要だと思ってます。このブログの一番初めの記事は「許し」について書いたものでした。

「#許しがテーマの作品」募集します - この夜が明けるまであと百万の祈り
許し カテゴリーの記事一覧 - この夜が明けるまであと百万の祈り


①他人のためではなく自分のためにあるもの
やはり「許し」ということ自体は生きていく上で必要だし大事だと思う。でもそれは自分のためにやるべきことであって、他人から強制されるべきことじゃない。 頼まれてもいないのに「スルー推奨」とかいうやつは間違っていると断言できる。

「ヒラリー・スワンク in レッドダスト」 - この夜が明けるまであと百万の祈り



②許すってことはものすごくしんどいこと。安易に「許すべき」などと他人が口にできることではない

陰口で傷ついている人に「スルー推奨」以外のどんなことが言えるか - この夜が明けるまであと百万の祈り

受け入れるためには「死の受容」のプロセスに近いプロセスを経由する必要がある(中略)一度死んで生き返るくらい困難だと思われる。


③それでもなお、許したほうがいい、許さなければならないという時は確かにある

なぜこのつらい作業を実践し続けるかというと、自分たちの国を作っていくためだ。今の苦しみを未来への希望に変えるためだ。過去の呪いから抜け出し、未来に希望を届けるには、それしか道がないと信じているからだ。その途方も無い祈り

日本語の「ゆるし」は意味の幅が広すぎるので、英語で考えたほうがすっきりする

私の考えは冒頭に引用した言葉にかなり依存しているところが大きいです。ただし、あれは赦し(forgiveness)であって、日常における「許し」はそこまで重くないほうがよいかもしれない。

letとpermitとadmitとallowとforgiveの違い | 違いがわかると英語がわかる

トマトブロガーさんのいう許しは一番軽い「let」でしょう。これが当てはまる状況はあまりないと思いますが、これはこれでれっきとした許しです。むしろ私みたいに「allow」や「forgive」を前提とすると、相手に罪を見出しているわけで逆に重すぎる。日常においては「permit」や「admit」こそ標準とすべきかもしれません。

このように日本語の「ゆるし」は扱いが非常にむずかしいと思っていろいろ悩みます。 なので、トマトブロガーさんのいうことは間違いではないけれど、いろんな状況の違いや程度を無視して、なんでも「let」の姿勢を良しとするような浅さでありそれが「現実味を書いた自己正当化の論理」にしか見えないわけですね。



許しは「自己正当化」ではなく「自己肯定」のために

私はこの記事がすごく好きです。

諦めとか許しってツライことなのに、それでもみななぜこれを選ぶのかというと、やはりより自分が前向きに、良く生きるためだと思います。

だから、許すかどうかで迷ってる人がいたり、自分自身が迷った時は「許すべきかどうか」「許さない人は可哀想な人なのか」なんてつまらない議論はおいといて、「許すことによって前向きになれるのかどうか」って話を考えたいと思います。

ルサンチマンって良くないこととされてますけど、それ抱えてるほうが力が出たり前向きになれるならそれでもいいと思うし、それが必要なくなってから「許す」でもいいと思います。