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猫を殺す仕事  「アポトーシス」について考える

ペシミストの勇気について

「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」

アポトーシスについて

猫を殺す仕事、はやたらとミクロな話を扱っているのに、なぜかどいつもこいつも世界のシステムの話をする。

これは勝手な解釈なのだけれど。どの短編も、常にアポトーシスを意識してるような気がする。


アポトーシス - Wikipedia

多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死(狭義にはその中の、カスパーゼに依存する型)のこと。ネクローシス(necrosis)の対義語として使われる事が多い

プログラム細胞死 - Wikipedia

多細胞生物における不要な細胞の計画的(予定・プログラムされた)自殺である。組織傷害などで細胞死を起こす壊死と異なり、一般にはPCDは生物の生命に利益をもたらす調節されたプロセスである。PCDは植物、動物、一部の原生生物で正常な組織形成や病原体などによる異常への対処として働く。

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投票げぇむ

人の脳には数百億の神経細胞があって、それぞれが数千から一万ものシナプスで別の神経細胞とつながっているそうよ。神経細胞シナプスを介して下流につながった神経細胞に刺激を与える。その刺激はさらに下流へと伝播を繰り返していく。シナプスの数は増減するけど、神経細胞は年を取るにつれて次々死滅していくの。活動頻度の少ない細胞から、、つまり自分につながったシナプスん少ない細胞から順番にね。そして、死んだ細胞は、自分の上流にある細胞の死を誘発する。不要な細胞を効率的に死滅させるために脳に備わったプログラムらしいわ。

人間は、地球という生命体の神経ネットワークの一部に過ぎないという説があるわ。もし私たちが神経細胞の一つに過ぎなくて、成熟を迎えたこの世界が不要な細胞を淘汰させ始めているのだとしたら?

藤子F不二雄先生も同様の話題を扱っていますし、おそらくその前からずっと言われている話なのでしょう。





「世界は死すべき個体を常に選んでいる」「そしてそれは自分かもしれない」という視点をもって生きるのはしんどいのではないか……

つまり、「全体の中で異常個体としてある私はどうすべきか」あるいは「全体が異常な場合、私は生きるべきか死ぬべきか」という話を手を変え品を変え繰り返してやっているように見える。

この作品の登場人物にとっては「世界または自分のことが異常に見えて」おり、そのことに対して登場人物は苦痛を感じているが、「世界」の立場からみたら、それは極めて合理的なのだ。

①世界にとって望ましいもの、適応したものが生き延び、②適応できなくても生き延びられる強さをもつものは世界を変え、③適応できない異常分子は生きにくさを感じ、苦しみ、すりつぶされたり、自殺を選ぶようになる。

それを個のレベルで見れば悲劇かもしれないけれど、しかし全体から見れば、特定の個体の環境を良い状態に保つために要請されたプログラムにすぎない。日本という国において、自殺者数が3万人という異常な数字を誇りつつも4万にはならないというのはそういう……とまぁ、そんな感じの視点。


そして、環境や前提が変わればそのアポトーシスのプログラムも変わる。たとえば第五話「また来世」の話なんかは、今の私たちがいる世界にたった一つだけ違う要素を加えれば、自殺のシステムや意味付けはは簡単に変わってしまうことを示している。この話においては、自殺は「環境に強いられて」やるものではなく「より良いパラメータ」のために行うものに変わる。


とにかく、世界は常に、そこにいる大多数の人々が幸せであるために「少数の、死すべき存在」を選ぶシステムを内在している。これは供犠を必要とした古代の村社会から変わらない。社会だって生命だ。生命である以上この縛りからは逃れられない。今私たちが生きている社会も誰か「死すべき人間」を選ぶプログラムが作動している。そして、それはどう未来を変えようと変わらない。道徳をいくら説いても救えないし、技術革新でいくら社会が豊かになってもゼロにはできない。


ならばそのことについては目をそらさずにいようと。ただ世界というものを生き物とみなし、彼らが死すべきものに語り掛ける声を受け止めようと。そんな感じなのかもしんないね。



そんなわけで。よく言えば現代のシャーマンみたいなものかもしれないが、悪く言えばクソ生真面目すぎるし、もっといえば「ドM」くさいと思う。小島アジ子さんのブログは良く見に行っているが、ものすごい勉強家だし、頭の中に思考や情報があふれていると思う。「そういう状態(心に余裕があって好奇心が強くなってる状態)」になった時に見に行く分には楽しいが、常時あの状態ならそりゃしんどいだろう、吐き出したくなるだろう。ふだんは頭のよい人、頭の中にたくさん詰まってる人に心からあこがれるが、私のようなバカはバカなりに幸せなのかもしれない。


私自身は難しく考えたくないが、そういうことを考えてくれている人がいることには感謝したい

私だったら、百歩譲ってそういうものがあると認めるとしても受け止められないと思う。自分がその対象になったら全力で抵抗するし、声が聞こえようが聞こえないふりをしようとするだろうし、とにかく生きたいから助けてくださいとわめきまくる気がする。たとえアホと言われようが、私は幸せでありたい。私は考えすぎてしんどいくらいなら考えるのをやめてしまう弱さがある。そういう弱さは、ダメなものとばかり思っていたけど、時には大事なのかもしれない。


そんなわけで私自身はこの問題について難しく考えたくないが、そういうことをまじめに考えてくれている人がいることには感謝したい。



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