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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「ポストモラトリアム時代の若者たち」  社会で荒れ狂う「排除の論理」にどう立ち向かうか

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

いまからする話は3年くらい前くらいに盛り上がったもので、ちょっと旬を過ぎてる感があります。ただ、今でも有効というか、語られなくなった分、それが定着してきてしまってる気がするので自分でもまとめておきたいなと思います。


全員が「すみわけ」られるスペースが足りない「すみわけ」を主張するのは見えないところで誰かを排除するのを主張していることにつながりうる

『住み分け』する以外に共存する道はないのだろうか - ゆとりずむ

場合によっては、住み分けを進めたほうが合理的かつ効率的な社会になるのかもしれない。自分たちと同じ属性の人たちに囲まれた社会のほうが住みやすいのかもしれない。だけどそれは、他者との交流が少なく、随分と定形化された社会になってしまうのではないだろうか。そして、その枠の中に入れなかった人は、どうすればいいのだろうか。

この記事重要だと思う。

それでもやっぱり、独身のほうが優遇されてると思う。 - 雑記帳

どうも現代社会は子供に対してなにか憎しみのようなものを抱いているとしか思えないのだ。

この二人の危惧は共通している。

多分同じような不安を抱えている人が多いのだろう。ただ、一方で、それをどう表現していいのかわからない人も多いと思う。



「喫茶店」の話に限定するならば、工夫すれば「すみわけ」というか妥協は可能だろう。しかしあまりなんでも「すみわけ」「ゾーニング」を前提にしてはいけない。なんでもかんでも「効率化」のためにすみわけを主張することはできない。全員が快適に過ごせるためのスペースは足りないからだ。日本では特にそうだ。 これは30年以上前に「コミュニケーション不全症候群」ですでに主張されている話だ。(この本は「狭いスペースにおけるいじめ」について実に単純明快な理論を提唱しており、今でもそれは変わらないと思う。必見)


スペースが足りない状態でなんでもすみわけしようとするとどうなるか。「すみわけ」という名の下で「スペースが足りなくなったとき、強者が弱者を殺すか、スペースを奪って追い出す」のだ。

現実的には殺すわけに行かないから、強者が大部分のスペースを取り、弱者にはわずかなスペースだけが与えられることになる。その結果、弱者同士が残されたわずかなスペースを争ってお互いを殺しあうのだ。

上の記事については「発達障害躁うつ病で貧乏の非モテキモオタ(本人の自称)」と「子育て中の主婦」がどちらが優遇されているか、どちらがつらいかという話をしている。正解は「どちらも優遇されてない」のだが、そうはいっても強者のスペースを分けてもらうわけにはいかない以上、お互いがお互いを憎悪しあい、片方の権利を奪って自分たちが少しでも良い条件を得ようとせざるを得ない。

これは陰謀論とかセカイ系の話がしたいんじゃないです。「日本死ね」の話です。

発達障害躁うつ病で貧乏の非モテキモオタ」も「子育て中の主婦」も「保育園落ちたの私だ」も「死んだ魚の目をした社畜」もその他もろもろも。そういう弱者たちはいっぱいいるのだけれど、そういう人たちが、みんな不満を抱え、その中でちょっとでもよそを蹴落として小さなパイを奪い合おうとする。視界に入ってくる「自分たちよりも優遇されるべきでない理由を持っている人」をみつけて、その人たちを蹴落とそうとする。そのうえで多くのスペースを持つ強者はふんぞり返ってるよ、と。そういういう構造になってないかなあと。



「社会に少しでも適応できないものはどんどんすみわけ(排除)(不可視化)していこうね」ということです。

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これについて「発達障害躁うつ病で貧乏の非モテキモオタと保育園落ちた私と子育て中の主婦がやられたようだな」「ククク、やつは弱者層の中でも最弱…」「弱者陣営の面汚しよ。やつらが差別されるのは当然だ。俺には関係ない」と安心していられるでしょうか。
「いやでもちょっと待って、次は俺たちがやられるんじゃね?」と危機感を感じるひともいるのではないでしょうか?


「そもそも俺たちは何にやられているんだ?その力の正体は何だろうか?何を警戒するべきなんだろう?」ということが気になりませんか?



排除の論理と包摂の論理

こういう仲間割れを煽る構造は「排除の論理」と言います。

「子供の経験値」と「大人の経験値」について - お前のことが好きやったんや

地域や国を超えて標準化が進むと共に目的論的な世界が出来上がり、目的にそぐわないものが排除される。目的を見つけることが目的だった「モラトリアム」はいつしか消えていき、目的もあいまいなまま、プレゼンテーション能力や資格や飛びぬけた経験が求められるポストモラトリアムがそこに聳え立っている。

これに対抗するのが、らくからちゃさんが提唱している「包摂の論理」です。


この考え方について語ってるのは↓本です。タイトルは「若者論」に見えますが、この「排除の論理」は若者以外にも無縁ではないです。この「排除の論理」の影響を受けて若者がどれほどねじれてしまっているのかを見ることで、自分たちを支配している考えも理解できるでしょう。

この本はちょっと難しいので、読書感想を述べている記事をいくつか紹介します。上から順番に読んでいってほしい。

なぜ僕らはライフデザインしなければならないのか? 「ポストモラトリアム時代の若者たち」を読んで | 文脈をつなぐ

ひきこもる若者たちのメンタリティ-『ポストモラトリアム時代の若者たち』 - 生きづらいふ

「ポストモラトリアム時代の若者たち」は僕の中で2012年一番のスゴ本だった-書評-ポストモラトリアム時代の若者たち - 技術教師ブログ

排除の論理は強者の論理だが、それに弱者が争いにくくなっている

排除の論理といっても軽度なものから重度なものまでいろいろな現れ方をします。喫茶店のすみわけの話くらいで目くじら立てなくてもいいだろうという考えもできます。
ただ、極端になると自分と違う他者への寛容性が失われていきます。

「ちょっとでも問題を起こす存在は排除しよう。なぜなら私たちの効率や生産性が大事だからだ。彼らに足を引っ張られると私たちもいつ排除されるかわからないからだ。我々の勝利のため、社会の敵である彼らを憎悪しよう」といった感じでしょうか。

私は彼らに脅かされていると感じているし、彼らは私に脅かされていると感じている。

http://hedgehogx.hatenablog.com/entry/2016/08/16/090255

この考え方は、イギリスの犯罪学者ジャック・ヤングによるものです。若者たちの反抗が、彼らの成熟過程の中で意味を持つものとされ受け入れられた社会を包摂型社会(inclusive society)と呼び、これが排除型社会と対になっています。日本においては、包摂型社会から排除型社会への進行が進んでいる。

私がそこに垣間見たものは、理不尽にところかまわず降りかかる死。それから逃れるための、生あるものの苦痛と恐怖。その混沌を覆い隠すために打ち立てられた、欺瞞に満ちた秩序。そしてゆがんだ秩序に安寧し、死を押し付けあう人間たち。恐怖という形のないものから逃れたいがために、自らの手で恐怖を形作る奇妙な祭り。狩る側も狩られる側も、おびえるものはすべて熱にうかれていた。


憎悪週間という言葉の中二病強度の強さは異常。


排除の論理が猛威を振るってる中では、若者はじっくり自分と向き合えず、焦って薄い自己ブランディングせざるをえない?

こういう論理の影響を一律に受けやすいのが若者かなと思います。

常に監視と警告を必要とし再帰性が高まると、結果として若者は再帰性に苦しめられ、どの場所にいれば安全か、どの行動をすれば安心かを考えコクーニング(さなぎのように閉じたものに)する。

再帰性の高まりと社会の変化から、若者の心理モデルがトラウマ化、スティグマ化していくというものである。トラウマとは、過去の失敗や環境に問題の原因をおき、そのせいで現在の自分は理想とはかけ離れた状態になってしまった、という心理状態を指す。スティグマ化とは、ここではもともとの社会からの汚名やレッテルという意味合いとは違い、自分の内面に「その行動をすると他者から異常とみなされてしまう」というモデルを内面化してしまう

で、そういう排除型社会に「過剰適応」しちゃって、その「排除社会のいびつさ」を見せつけてるのが、例えば最近はてなブログでよく見かける「やたらと薄っぺらい自己ブランディング」をしたがる若者たちなのだと思ってます。

彼らのこっけいさを笑ったり憐れんだりするのはとても簡単なんですが、すでに社会に適応している人間がプレッシャーかけすぎてるからかもしれないんですよね。

大人も若者もお互いに余裕がなくて敵視し合うような関係になってたとしたらそれは残念なことです。

若者たちが歪んでいると感じるなら、それは自分たちの社会のゆがみを告発する鏡だと思う

だいたいの人は、個性をあきらめてでも社会になんとか合わせようとしてるのではないかな。でも社会に合わせようとすると苦しい。息苦しい。生きぐるしい。その苦しみを誰かわかってほしいって思ってると思う。

発達障害者の「自分のつらさをほかの人にわかってもらえないつらさ」について - この夜が明けるまであと百万の祈り

その苦しみから全部逃げようとすると宮森はやとさんやらミニマリストになっちゃって。その苦しみを「視界に入ってる気に入らない誰かのせい(女性が優遇されてる!)」みたいな話にしようとして間違えた記事書きまくってるのが青二才さんタイプかなーと思う。


んで。個人的には青二才さん結構好きなんですよ(知ってた?)青二才さんのほうが苦しみから逃げずに頑張っててえらいなとは思う。たどたどしいし、よく理解できてないし、表現は誤解を招きまくりだけれど「俺たちは苦しんでる」ってことを自分なりの言葉で伝えようとするのって結構しんどいことなので、それ頑張ってる点は素直にすごいなって思う。表現クソだけどね。

だって、みんななんだかんだ途中で考えるのをやめて、「あほなことしてないで社会に適応しよう」ってしちゃうでしょ?こういうの考え続けるの苦しいだろうに「いや、うまく言えないけど今の社会はおかしい」って感覚を持ち続けてる青二才さんは割とそういうところが支持されてるんかもね。
。いや違うか。んで、宮森さんタイプは正直いうと全く期待できない。

んで、このあたりについて、ちゃんと俯瞰的な視点からもう少し考えてみようよって言ってるのがこの本だと思ってます

反発でも逃亡でもない第三の選択肢として。社会が「モラトリアム」を与えてくれないなら、自発的に飛び込んでみてはどうだろう?

これについてですが、正直よくわからんです。「自分」のことなら前の記事について書いたんですが、私「社会」についてとかそういう大それたこと考えるの苦手やねん……。

上ではそういうの考えるのってえらいよね、なんて書いてますが、一方で「それって、ほんとに考える必要あるのかな」って考えてしまう。社会のことなんて考えずにまず自分しっかりしようぜって。でもまだぞの土台となる自分の部分が弱い人、そこをみつける余裕がない最近の若い人たちはいったいどうしたらいいんだろうね。

「枠内の個性」とその行方 - シロクマの屑籠

自己選択するための意志・能力・時間を兼ね備えた若者が、今の世の中に、一体どれぐらいいるだろう? 大学生の5割以上が奨学金制度を利用している社会状況のなかで、「個性」や「自分らしさ」を取捨選択する“ゆとり”を持っている若者は、ただそれだけで強者であり、選ばれた者ではないか。

そういうはなしもあると思うけれど、とりあえず「プロブロガーになる」みたいなところに一足飛びにいくよりは、可能な人だけでもけいろーさんのブログみたいにどっしり構えて考えてみたらいいのかなと。


わたしもとにかく働くのが嫌で、社会に適応できない自分に自信もなくて、いろいろ考えてた時期あります。考えても納得いく答えはでませんでした。でも考えておくのは悪いことではないかなと。

社会についてではないですよ?自分自身について考えてみてはどうでしょう。

この時ブログで似たようなこと言ってる人を見つけて群れて安心してしまうのはあまりお勧めできない。自分でいろんな本読んで考えてみて欲しいなと思います。とりあえずこのあたりおすすめ。