頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「必要になるのは、相手の主張を過剰なまでに相手の属性へと還元しないという態度」

とても良い記事を読んだ。

(4)Aを批判する
(5)穏やかな無関心を決め込む。Cへの共感は示すが、当事者性が問われるような次元にまでは踏み込まない
(6)マジョリティであることを認めつつ、Cにコミットしていく

Bにとってもっとも安易なのは(5)だろう。Cに共感する姿勢を穏やかに見せつつ、実際には深く踏み込まないというスタンスは上品を気取る向きにはもってこいである。言説それ自体が権力なのであれば、最初から語らないのが一番ということにもなる。実際、ぼくを含め、いわゆるリベラルの人たちの多くはここの部分に逃げ込んでいるのではないかと思う。

 逆に、きわめて困難なのが(6)だろう。Aからは「偽善者」などと罵られる可能性が高い一方で、Cからも「Aと同じ穴の狢のくせに」という後ろ弾を撃たれかねない。実際、批判の矛先が不特定多数のAよりも、個人として特定されているBへとより激しく向かう可能性は高い。普通なら「なんで、ここまでサンドバックにならねばならないのか」という思いも湧くだろうし、頭に血が上れば「それなら、 いっそのこと抑圧に加担してやる」という(1)のような発想が浮かぶこともあるかもしれない。むろん、それが破廉恥な態度であることは承知しているので、 疲弊すれば(5)の態度へと移行していくだろう。



これを踏まえたうえでの結論はとても示唆がある。


結局、ここで必要になるのは、相手の主張を過剰なまでに相手の属性へと還元しないという態度ではないだろうか。

「しょせん、あなたはマジョリティなんだ」と発言することは、一種の権力だ。他者の発話を即座に権力の言語へと読み替えてしまうことも、それが沈黙を誘発するのであれば権力として作用しうる


なるほど。

気に入らない相手はなんでもA認定して黙らせればよいと思っているBは、愚かで傲慢な狂人と言わざるを得ない。しかし一方で、訳知り顔でBを黙らせようとするAもまた抑圧的のそしりを免れないだろう。

なにより、AもBも、Cを権力の道具として利用してお互いを打ち負かそうとしているようなことになっており、これは全くおかしな話である。 本来はAとBの権力争いが目的ではないはずだ。




ところが、差別や貧困、戦争責任といった問題に関しては誰かが何か発言するや否や、即座に「ポジション」や「属性」を即座に突き付けAの立場かBの立場かを選ばせ、どちらかの立場で戦うことを強いる戦争仕掛け人のような人がいることがよくわかった。

こういう人たちの存在は、それがものすごく場を息苦しくさせる。

ふるまいや発言が自己の属性へとすぐに還元されてしまうことの息苦しさを、マイノリティだけではなくマジョリティもまた感じうるのだ

結局のところ、何かの問題についてすぐに相手の主張を「属性」に結び付けようとする存在がいると、その議論は息苦しくなり、みんな沈黙してしまうのだ。 そして「自分の属性」を称することに抵抗がない人だけが元気に発言を続けることになる。 その場に残って発言を続けられるのは「政治」「権力争い」をやりたい人だけだ。そういう場で行われる議論が健全になるはずがない。





これが戦時中だったりシベリア抑留の世界というのならわかる。

根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追及しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。<協力>とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。

 鹿野はこれにたいして「*もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない*。」と答えている。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/yaziuma/kano/pesimist.html

看守がAで、受刑者がCだ。Bとしてどちらを選ぶかは「生きるか死ぬか」に直結する。選択を拒否したり、どちらも選択するということは許されない。 だが、そういう状態での選択に、真実など現れないだろう。それは単に「どちらが強いか」を選択するだけの話だからだ。問題の本質からははるかに遠ざかっていく。

そのときの彼の表清に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあったはずである。真実というものは、つねにそのような表膚でしか語られないのであり、そのような表情だけが信ずるに値するのである。まして、よろこばしい表情で語られる真実というものはない。


差別や貧困という問題について、すぐに相手の「属性」を問題にして、「お前はAかCか」とそればかりを問題にしてパワープレイに走る人たちは、議論を窒息させて両者の間に溝を作る。どちらかの立場に撞着したり、人をその枠にはめ込もうとするのではなく、一度そういう立場から離れて、いろんな問題について個別具体的に話をしていきましょうということになるだろうか。




正確ではないがつかいふるされた言葉でわかりやすくいうと「人を憎んで罪を憎まず」ということになるだろうか。


批判対象をすぐに「属性」に還元すると、罪と人が一体化する。むしろそういう属性を持っているだけで罪だと言い出すようになる。逆に、自分の行為への批判も「どうせ私がこういう属性だから文句言ってるんでしょ」と処理するようになって、自らの行為についての反省がなくなる。

自己責任の範囲と、自分が悪く無い範囲の境界は、自分なりに意識しておいたほうが楽だと思う - この夜が明けるまであと百万の祈り
「ゲイだから仲間はずれにされたんじゃない。僕が、嫌な奴だったから」 - この夜が明けるまであと百万の祈り


こうなったらもうおしまいだ。



日本のネットはすぐに「あの人ははてサだから」とか「こいつ在日だろ」「女というものは云々」という形で属性を用いて人を否定するような物言いをする人がいる。こういう行為をする人が多いから、反動として極端に属性に敏感になる人が出てくるのだろうと思う。




しかし、着目すべきは属性ではなく行為ではないか。
「どちらの立場であってもやってはいけないことはやってはいけない」「たとえ立場が違ってもされてうれしいことはある」という地点から始めることだ。 そういう共通項をもって少しずつつながりを作っていくしかないだろう。

「AかCのどちらかが正義でどちらかが悪だ」という考え方に陥ると、民族浄化的な発想につながりかねない。「属性」にこだわりすぎるとそういう危険な思想をするようになりかねない、気を付けなければいけない。落としどころは0か1ではない。どちらかを滅ぼせという話ではない。



人間は単純な属性に還元できるほど単純ではない。属性だけで考えると致命的な誤りを犯す。


「この生き方が正しい、他の生き方は間違っている!」って鼻息荒い人は批判される - この夜が明けるまであと百万の祈り

ミニマリスとの時にさんざん書いたけど「こういう信念や生き方を選んでる」という属性だけで人が肯定されたり否定されたりするという雑な考え方の人ってうんざりする。




あと最後に。

ネットでの批判は割り引いて評価されるしそうあるべきだと思う - この夜が明けるまであと百万の祈り

そもそもネットで何かを批判する行為は安きに流れやすい。私も今回手抜きをしてしまった。「ネットにおける批判」という行為は割り引いて評価されるべきだと思っている。