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ポリコレについて何かを語りたいなら、ポリコレについて「ポリコレという言葉を使わずに」他人に説明できることが必要

以前から何回かポリティカル・コレクトネスに関する記事は書いてきましたが、どうもしっくりこない。なので、自分で考え直したいわけですが、そもそも自分はポリコレについてあんまり理解できてない気がします、というお話です。

ポリティカル・コレクトネスはシビュラシステムの夢を見るか - この夜が明けるまであと百万の祈り

「エモーショナル・コレクトネス(正しい感情表現)」を伴わない「ポリティカルコレクトネス」一辺倒では人の心を前向きに動かすことはない - この夜が明けるまであと百万の祈り

「言ってることはわかるがお前のことが気に入らない」を軽視しすぎたらあかんのちゃうかな - あとのまつり

「人間的なテーマ」を描写するために「人間」の存在を必要としないどころかむしろ邪魔、というのは寂しい - この夜が明けるまであと百万の祈り


このあたり見てて思うんですが、私、ポリティカル・コレクトネスについては漠然としたイメージで語ってますよね。

トートロジーに陥った時点でその話には意味がなくなる

正しいかどうかはともかく。

①自分の言葉で
②ポリコレというものをどう把握しているかを説明できる

ことが必要であるような気がします。

それができないと、ただ言葉に振り回されて「トートロジー」に陥ってしまいます。




高校生の小論文添削の仕事をやっていたことがありますが、その練習を始めたばかりの人は、基本的にみんなこのトートロジーの罠に陥ります。

話し合い(議論の場)で、その結論が「AはAだから、Aなんだ」じゃ、実がないし、結局「何も言ってない」のと同じなので批判の対象になります。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1222364257

はてなブックマークでも「コミュニケーション能力」「ブラック企業」などに関してはトートロジーに陥っていて、しかもそれに気づいてない人が多いですね。





ポリコレの話に戻りますと、「ポリコレに反するからダメ」は主張として駄目です。

それだけしか言ってない人は何も考えてないバカだから出直して来い、という言い方が許されるべきでしょう。

ポリコレという言葉で表現したいものが正しいかどうかはさておき、その人にはその言葉を使う資格がない。

その人には、ポリコレという言葉を使わずに、自分の考えを説明してもらうよう求めたいところです。

「ポリコレはこういうもので、それはどういう目的があって、それは今回の問題に対してこうかかわっていると認識している」あたりでしょうか。

ここまで言えない人がその言葉を使っても言葉に振り回されるだけです。

「よくわかってない。使いこなせない言葉を無理に使うな」という話ですよね。

「ポリコレ棒」という表現も同様の理由でだめだとは思います。

身内で議論を「省略」するために使うのまでやめろとは言えません。

ただ、各々の参加者はその言葉について、求められればいつでも説明できる状況にしておく必要があるでしょう。

その言葉を使いたいなら、必ずはてなグループでも、はてなキーワードでもいいから参照先を用意しておくことです。

そして、自分もその参照先以上の意味で使わない。逸脱しないという制約を意識しておくとよいと思う。




簡単に言うと、「言葉の意味をよく考えずに自分の都合の良いように解釈してんじゃねえよそういう頭悪いのはイケダハヤトだけにしろ」ということですね。




トートロジーをそれと自覚なく使い続けているとどんどん「藁人形論法」に近づいていきます。

気に入らない対象を批判するときに、その特徴をとらえて、その特徴に名前を付ける。そこまではいいと思います。ですが、そういう造語行為をする場合、必ず「定義」は明確にしておかなければいけないしその定義はその都度確認されなければいけない。こうした「説明」ができないなら、あるいはその説明がその都度できることが嫌なら、最初から造語を使わなければいいのです。





こうした「造語」について、意味や経緯を深く考えずに使い続けるといつも結末は同じです。

①その「造語」は、もともと人を批判するために作られたわけですから、批判するためのありとあらゆる要素を取り込んでどんどん醜いものになっていきます。

②こうして、最初はその言葉を作って批判している人が優勢になりますが、だんだんとその人たちはどんどん節操をなくしていき、論理を放棄するようになり、その言葉を使ってなんでも殴るようになります。特に、その「造語」を使うために、どんどん「極端に問題がある人」ばかりを探すようになってしまうと、いわゆる「しばき隊」「自警団」となってしまいます。


ワインバーグの法則 - この夜が明けるまであと百万の祈り

金槌の法則
クリスマスプレゼントに金槌をもらった子どもは、何でも叩きたがる。

スパークスの法則
問題を解決できる見込みは、問題を起こしたのは誰なのか見つけ出そうという立場に近づけば近づくほど減少する。

togetterではそういう、いわゆる「しばき隊」になってしまった人たちが、いかにも頭の悪そうな、過激で極端な発言をしている人をせっせと見つけてきては晒し上げ、それを見て「ポリコレ」や「ポリコレ棒」という言葉のイメージをどんどん悪くしていく活動が行われていますね。この世でもっとも不毛な行為の一つではないでしょうか。


③そして、かならずいわゆる「しばき隊」の中にやりすぎる人が出てきて、結局「しばき隊」とその批判の対象は、どっちもどっちとなり、最後には不毛なののしりあいしかできない人たちがtogetterのコメント欄に沈殿していきます。


とても不毛なことですよね。そうならないためにも、せめて、造語を使う場合はいったん「いわゆる」という言葉を頭につけてみる癖をつけてみるとよいでしょう。そうすれば、この言葉が定義のしっかりした言葉ではなく俗称でしかなく、意味をちゃんと考えなければいけないという意識になるでしょう。






これは「比喩」についても同じ

比喩を使うのがほんとへったくそな癖に、比喩がたとえ話が大好きな人がいますよね。

ブラマヨ吉田さんからみた長谷川豊炎上問題の世界 - Togetterまとめ

最近になって、彼らは「そのままだと理解できないから単純化するために、あるいは感覚に添わせるために比喩を使う」ということがわかってきました。

つまり、こういう人たちにとっては、比喩というのはアウトプットの手段ではなくてインプットなんですよね。

自分のざっくりとした理解の方向性を確かめたいからこういう表現を使う、ということなのでしょう。



それならそれでいいんだけれど。前提として

・「自分の理解に自信がない」ということや

・「相手に比喩の意図を読み取ってもらって、それに補足を付けてもらう」ことを要求しているということ

を理解して使わないとダメじゃないでしょうか。

「英語初心者の人がネイティブに拙い英語で話しかける」ようなもので、相手にかなりのコミュニケーションコストを負担させる行為のはずです。

であれば、聞き手は選ぶべきだし、謙虚さというか、聞いてくれる人への感謝が必要だと思う。

自分がすっかり理解できていて、それをわかりやすく表現したり、感性の領域に変換して伝えることが目的の比喩と、

自分があまり理解できてなくて、手探り状態で表現して相手にくみ取ってもらうことが目的の比喩が、同じなわけないですよね。




そのあたりを理解できておらず、へたくそな比喩を使って説明したあげく

誤読されたり、その表現にケチをつけられたら逆切れするような人は、せめて比喩を使うべきではないと思います。






ネットで、造語や比喩を気軽に使っていると「事実から離れやすい」ということを十分に警戒したい

「その言葉を使わないとその言葉について語れない」という人は基本的に

最近のラノベのことを知らないのに「最近のラノベ」という言葉に引きずられて語感・雰囲気・印象だけで適当なことをしゃべっている人と同じです。

「物書きとして言わせてもらうが、最近のラノベは……」って言ってる人もうその時点で、物書きとしてのセンスがないのが露呈してますよね。自分が表現者たろうとしているのに、自分が使っている言葉に対して無頓着どころか、他人が作った言葉にふりまわされる。そんな人の文章を読みたいと思いますか?と言いたい。

ミサワをみるたび思いだせ! 「ダニング・クルーガー効果」 - あとのまつり
なぜ能力の低い人ほど自分を「過大評価」するのか(池谷 裕二) | 現代ビジネス | 講談社(2/6)

フェミニスト」批判してる人がどれだけフェミニズムについて理解しているかというと、実はあんまり、ですよね。

上でいったようないわゆる「しばき隊」の人たちがtogetterでまとめた例だけを見てイメージを作っちゃってるような人とか自分が失言をした時に叩いてきた人をみんなフェミニズムだと思ってたりしてることもあるかもしれません。

そういう「狭くて偏った理解」になってないかは意識してチェックできるようにしたいですね。




「あれこれ気を付けよう」とルールを考えるよりは単に「よくわからんことはよくわからんで良い」「無理に発言しない」が大事かも

と、ここまでなんか偉そうなことを言ってますが、この記事は冒頭で述べたように、自分の反省を形にしたものです。
自分が失敗して恥ずかしいと思ったからこういうことを書いてます。



この前、「まなざし村」って言葉を知りまして。
で、よく意味わかってないくせに漠然と語感が気に入ってその言葉を使って「金槌」でポコポコと気に入らない感じの人を批判するツイートを何個かしたわけです。


そしたら、あんまりそういうことに興味がない人から

「まなざし村って何?どういう意味?」

「え、意味がちゃんと分かってないの?」

「○○○の事がいいたいなら○○○といえばいいじゃない。なんでわざわざ変な言葉を使うの」

とばっさり切り捨てられてしまい、とても恥ずかしい気持ちになりました。


でも、使い始めだったし、その人は丁寧な人だったので
「だいたいあってるからいいだろ」とか「お前がこの言葉を理解すればいいじゃないか」といった逆切れはしないで済みました。







自分にとって一番大事なのは、こういう感じでニュートラルに物事を見て、
自分が変なこと言いだしたらブレーキをかけてくれる人が周りにいることかもしれません。

私はブログ読者の人やブックマークする人にはそういう存在であってほしいと思います。いつもありがとうございます。



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「わからないから嫌い」「肌感覚に合わないから否定する」というところから意識を切り替えて「わからない」を利用して行動につなげるという考え方を提示してくれている本です。一時期は橋本治さんの本好きで結構読んでたけど、最近は読んでないな……。