この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです。 ※記事を読まずにはてなスターを押して回る行為はお断りしております。

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「ど根性ガエルの娘」感想  果たされなかった作者の願望の物語

一度メモ的に感想は書いたのですが、以下の2記事を読んで刺激を受けたので
1巻2巻を読んだ上で、自分はこういう風に受け取ったよという感想というか妄想を書いてみます。


ちなみにマンガ版は現在読めるWeb連載版に加えて、番外編という形での書き足しが多く(1巻は170ページに対して50ページ近くが番外編でありさらに14ページほど描き下ろしがあります。)、さらに「まんがかぞく」の大島永遠との対談が収録されています。これらは読んだほうが理解の助けになると思います。

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時系列の確認

まずおさらいですが、時系列としてはこんな感じですね。

「ド根性カエルの娘」書き散らしメモ - この夜が明けるまであと百万の祈り

2015年1月 田中圭一が、弟視点で吉沢家を美化する作品を描く

2015年3月 父親のインタビューで「ど根性ガエルは孝行息子」などの話が掲載。

2015年7月11日 ドラマ「ど根性ガエル」が放映

2015年7月11日 父親の許可を得て「ド根性カエルの娘」連載開始 。この時点では出版社の要求もあり(ドラマとの絡みも当然あっただろう)「前向きなストーリー」で描くことになった

2015年8月  吉沢家の再生と母親の内助の功を褒め称えるインタビュー記事がネットで公開される

2015年9月  作者と父親との対談が行われる(15話)。父親が暴れてインタビューは終了。内容は公開されず?

2015年11月  1巻刊行。作者にナタリーがインタビューを行い、制作意図などを聞く。前後して、「まんがかぞく」の大島永遠との対談が行われる。(単行本に収録)

2016年7月  父親が危篤状態になる。

????   出版社の移転?(情報がないのでわかりません)

2017年1月  15話が掲載 ヤングアニマルDensi

とにかく「ぴょん吉」リバイバルブームで生活に余裕もでき、さらに弟に子供が生まれて孫が出来た。そのうち父親が機嫌よく過去を語り始めた時期にあわせて許可を得て連載を始めたというところでしょうか。




作者がこの作品でやりたかったことについて妄想してみる

根拠はないのですが、わたしには作者は最初からこうするつもりではなかったと思う。この根拠のない感覚に基づいて、自分なりにこの作品を読んで、勝手に作者のことを妄想してみる。


「ど根性ガエルの娘」大月悠祐子インタビュー (1/3) - コミックナタリー Power Push

現実はどんどん動いていくので、描いているほうもライブ感がありますね。

人って壊れたりすることもある。どうしようもなくなることが、ある。でも、どうか、生きることを諦めないで。ということを伝えたいんです。こういう家族もいるよ、元気で生きているよ、ということが誰かに響くものであったら。何か一歩を踏み出す勇気になってくれたらと思ってます。


1巻~2巻を読んでみると、母親については作中で何度も作者に詫びる姿が描かれる。きっと作者は母親からの謝罪は受け入れているのだ。ひどいことを何度もされたけれど、母親については、許すかどうかはともかく深く反省して詫びているということは受け入れている。母親とは会話ができるようになったと思っている。

「お母さんは、変わったよ。あの頃とぜんぜん違う。話が通じる。話ができる。キセキだって思ってる。全然期待なんかしてなかった。こうなるなんて思ってなかった。」(14話)

しかし、作品中で父親は、自分の行いについて後悔はしているけれど、作者に対して一度も詫びている描写がない。事実はどうあれ、作者の中では、父親は作者に対して詫びていないのだ。そして、父親は未だに会話ができないし恐ろしい怪物のままなのだ。作者が許した、受け入れたフリをしているだけなのだ。

未だに父親が怖くてそういう風にしか振る舞えない。むしろ母親が詫びている姿を執拗に描くことで「ねえお父さん、あなたもわたしにいうことがあるんじゃないの?ねえ謝ってよ。お願いだから、一言でいいから謝って。そうしたらわたしもあなたを許せるのかもしれないのだから」って訴えかけていたのかもしれしれない。

父の世界では、本当にそんなひどいことをしたという実感がないんですよ。当時は追い詰められすぎていて精神が壊れていたので、違う人格というか、今と昔では違う人間になっていて。正気に戻ったんですね。シラフじゃなかったから暴れていた。

自分がとんでもないことをやったっていうのは、わかってるんですけどね。マンガを読んで、軽い気持ちで「オーバーだね」って話したら「いや、もっとひどいこともあった」とかって言われて。自分のことが描いてあるんだけど、マンガとして読んだら面白いなと思ったんですよね。

12話なんかを見ると、作者は独立する以前には自分を殺すか、父や母を殺すかの二択をずっと考えていたのだろう。それに対して、あまりに父親の認識は軽い。 「面白い」とか「笑える」というかたちでもはや他人事のように受けとめているフシがある。

この大きなギャップはそう簡単には埋まらないだろう。



作者は生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められた後、なんとかどちらも殺さず自分が生きる道を見出すことに成功する。そして、伴侶とも巡り合い、形式上の和解までは成し遂げた。しかしそれはあくまで形式上のことであって心のなかでは全然決着はついてない。なによりいまでも自分は父親の顔色を伺い続けるくせがやめられない。心から思ったことを言うことが出来ない。こんなので和解だの家族の再生だのはチャンチャラおかしいと思っていたのだろう。今のままだと作者にとっては家族はせいぜい「Under the Rose」のロウランド一家のような見せかけの劇場でしかない。

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だから、どうにかして本音でぶつかりたかった。私はこんなに傷ついたんだと少しでも分かってほしかった。そしてひとこと謝ってほしかったのではないだろうか。

作者は父親を、許したかった。父親のためではなく、自分のために。父親にとらわれずに自分が前に進むために。それでも、どうしても自分だけでは、父親を許せなかった。夫という存在かあってもダメだった。ある程度距離を置いて振り返ることができるようになっても無理だった。どうしても、父親にわたしは辛かったんだと伝えたくて、そして父親にそのことについて謝って欲しかった。いつか、そこにたどり着くことこそが、作者にとってのこの作品のゴールだったのではないか。


これについて、作者は最初、腰を据えて取り組むつもりだったのかもしれない。面白おかしく、でも切実な思いを、父親がわかってくれるまで訴え続けるつもりだったのかもしれない。現実をベースとした物語である以上、その結末は創作することが出来ない。それでは全く意味がなくなってしまう。だから自分の願望をなんとか現実にするための、必要な最後のピースを求める作者の訴えやあがきが14話までの展開だったのではないか。

これを作品にできたらそれを読んでもらうことができたら誰かの心を動かすことができたら、自分が目指したマンガ家に私もなれるんじゃないかなって。

罪と罰において、ラスコリニコフとソーニャは、お互いに事情を理解しあっていたが、それでもソーニャがラスコリニコフを受け入れるには、彼が罪を贖うという行為を絶対に必要とし、そこは妥協しなかった。

作者はそこまで厳しくはない。 本当にたった一言でいいから、父親から自分に心から詫びて欲しかったのだと思う。そして、母親とはそう出来たように、父親とも「会話」がしたかったのだと思う。自分の話を聞いてもらいたかったのだと思う。父親ときちんと会話をできるだけでも作者にとってはキセキであり、それさえあればおそらく作者は父親を許せたのだろう。


実はもう一つわかりやすい道はあって、父親殺し、父親越えという手もあった。つまり、マンガ家として父親を超えて認めさせる、屈服させるというやつた。少年漫画の定番であり、本当はこれが理想であったろう。でもそれが無理であることは本人が誰よりも良くわかっていたはずだ。だから、残された道は、父親に娘として認めてもらうことしかなかった。父親の譲歩を願うという絶望的な戦いにならざるを得なかったのかもしれない。あまりに大きな父親を持ち、そこと同じ道を目指すということの苦しさも感じる。



「打ち切り作家」のような焦りと覚悟

しかし、その決着が着く前に父が自分に詫びることもなく、自分に対する態度を変えることもなく、しかもこともあろうに自分だけは幸せそうな顔をしながら死んでしまうかもしれないという状況になってしまった。


その時になって、作者は大いに焦ったのかもしれない。

それは作者にとっては最悪の逃げだと映ったのかもしれないし、なによりこの、現実と連動した連載は、突如父親の危篤という事件によって頓挫してしそうになる。

ど根性ガエルの娘」は今は作者の願望と現実が混じり合った状態になっていた。それを現実に変えていく最中だった。しかし、父親が死んでしまったら、それからどれだけ作者が頑張ろうとも、結末に至る希望や可能性が完全に潰えてしまう。これはジャンプマンガにおける打ち切り宣告のようなものだったろう。(ど根性ガエルはジャンプで連載された作品)

このまま連載を続けて目的としたゴールまでたどり着けない可能性が高くなったときに、「打ち切りが決まった漫画家」は決断しなければいけない。どういう方向性にするのか、どういう終わり方にするのか、だ。このまま美談めいた穏やかな形で終わらせるのか、それとも、自滅覚悟で、作品の崩壊覚悟で、溜め込んできたものを未消化のままで、未解決なままで全てぶちまけるのか。

そして、作者は「今までのは何だったのだ。騙しだ、嘘つきだ」とか、狂人の行為だと呼ばれることを覚悟の上で、一線を踏み越えたのかもしれない。

このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである

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まぁすべて私の妄想なんですけれどね。

自分の周りがどんどん吉沢家の思い出を美化して行き、自分も父たちや編集者の顔色を伺いながらいい話のフリをして予定調和の流れに合わせつつあったが、父が倒れたことによって思いが噴出したのだろうか。

自分の周りの動きに対して、このまま黙っておることは絶対に出来ないと肚をくくったのだろうか。たとえ狂人と呼ばれようとも、己の不幸を絶対になかったことにすることは許さないということか。

自分でも許し、和解するきっかけのつもりとして描いていたつもりであったが、15話で描かれた父の態度によって、よしやはりこいつは許さないという気持ちのぶり返しがあったのか。

あるいは最初から、こうするつもりだったのか。いつかは隙を見て言峰が遠坂父にしたように、後ろから剣を刺し、唖然とする顔を見て昏い愉悦に浸るつもりだったのか。

どれが正解かはわからないし、上で書いたとおり、多分私がどれだけ考えても理解できるときは来ないと思います。



なので、私は勝手に自分でこんな感じかなと受け取りたい物語を妄想して、勝手に受け取ります。たいがいの読者とはかように勝手な生き物なのです。そんなわがままな読者に向けて、何かを伝えよう、人のこころを動かそうとして全力で取り組まれている作者さんは、間違いなくマンガ家なのだと思います。