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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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ミソジニーのつくりかた

「恋愛や結婚出来ないやつは欠陥品」みたいな圧力は以前よりはだいぶ減ってるとは思うけれど、今でもそれに悩まされてる人は少なからずいる。


そういう人たちに「社会の方がゆがんでるんだから気にするな」といったって無駄でしょう。それは理屈の話であって、実際にその圧力を感じてしまってる人からすればそんな心構えの話をされるより、「さっさと恋愛の一つくらい」「セッ○スの一つくらい」済ませてしまって、何も言われないようになりたいと思うだろう。

理屈的にどれだけ正しくとも、「自分は間違ってない」と信念を持っていても、社会的な圧力にはそんな簡単に抗えるものではない。

三人これを疑えば、その母も懼る - ウィクショナリー日本語版

だから、その人達はもし何らかの手段で「恋愛」や「セッ○ス」という行為を通過できるなら、その忌まわしき呪いはさっさと通過したいのだろうと思うし善意で「さっさと○ープに行け」「ごちゃごちゃいわずに体当りしていけ」的な発言をする人たちだっている。


ここで妥協して世間と折り合いつけられるなら、意外とやってみたら幸せになれるかもしれない。


ただ、こうした声を受け入れられず、圧力と感じて苦しんできた人たちが嫌うのは「恋愛」や「セッ○ス」そのものじゃないかなと思う。


全く知らんから間違ってると思うけど、本田透さんってそういう話をしてたんじゃないんかなと勝手に思ってる。


憎んでいる舞台から降りられない人たち

だが、こういう抽象的な価値観を憎むのは難しいし、何よりも「恋愛」や「セッ○ス」への未練があると、それ自体を否定できなくなる。すると憎んでいるはずの「恋愛」や「セッ○ス」逆に擁護することになる。「恋愛」や「セッ○ス」は否定しないけれど、自分がそれを得られない理由を他に求めることになる。



その理由を自分で引き取ったり社会的経済的理由などある程度客観的な理由に留められる人はまだ理性的である。 しかし、それすら出来ない人間は「言い訳」を「わかりやすい他人」に求める。


そこでさらに「マッチョな男」や「ナンパ男」や「毒親」などのせいにするという選択肢も残っている。このあたりを憎悪するならまだ自分に自制もきくし、他人からの同情も得られるだろう。


それでもなお自尊心を維持できなくなった時に、「(特定の層の)女性そのものを見下す」というミソジニーに行き着く人たちが出てくる。


毒親問題と似ている。ある人にとっては素晴らしいものだが、その価値観が合わない人間にとってはひたすら自尊心を破壊する存在でしかない。そこで親を否定して逃げ出せれば良いのだが、否定しきれずとらわれてしまうと、毒親自体は攻撃できずに代償行為としてそれ以外の叩きやすいものを見つけて攻撃するようになる。



というような適当なことを考えてみた。



ミソジニーを抱えている人は「恋愛を否定しきれない。チャンスがあれば自分だって恋愛したい」と思ってる人たちだ。まだその世界観から解脱出来てない。解脱できないから自分の恋愛対象外、あるいは自分を恋愛の対象として見ない異性を憎悪するという中途半端な形をとる。これは傍から見ると毒親にもありがちな「自分の言うとおりにするなら愛してやろう」みたいな腐った態度であるが、本人たちがそれを自覚することはない。中途半端だし現実逃避であり、そのくせ自己正当化には余念がないので非常に見苦しい。


根本的にミソジニーを抱える人達が苦しむのは未練や中途半端な立ち位置しか取れていない原因だろう。なので、この人達が本当に否定すべきは「女性」ではなくて「恋愛」や「セッ○ス」の価値それ自体だと思うそして、求めているのも「自分を無条件で愛してくれる存在」なので、三次元諦めて二次元に専念したほうが幸せになれるんじゃないかな。もうミソジニーまで来てる人はレベルマイナスだから、頑張れば頑張るほどダメになる。だったら何もせず何も考えないほうが絶対に楽だろと。 

考えるのはゆっくり心を癒して憎悪の気持ちが薄れ、余裕ができてからにすればいい。まあそれはそれでレベル1からのスタートなのでしんどいが、マイナスよりはマシだ。






ここからは余談です。「とある科学の超電磁砲」の1巻~3巻までを読んでる人だけどぞ。

そもそも「恋愛できないやつは欠陥」みたいな圧力が本当に発生してるなら社会自体が無能なんだから、社会の反応きにせずに自分なりの存在意義みつけるしかない

90年台に、日本はメリトクラシーを越えてハイパー・メリトクラシーの時代に突入しましたよね的な話があった。今は日本全体ではないけれど、多分私のしらないどこかで「恋愛メリトクラシー」というか「恋愛によるカースト」みたいなのがあるんでしょう。「恋愛という一つの軸が全て。他でいくら頑張っても恋愛ができなければ全て否定される」「恋愛できないやつは欠陥」みたいな感じに感じてるってことよね。


私はそう思ったこと無いけど、もしそう感じてるなら、もうそれ「学園都市」状態だ。

「佐天さん問題」を考える(1)―マクロな視点から『とある科学の超電磁砲』を見てみよう - 新・怖いくらいに青い空

園都市は最初から老人や障害者を排除した非福祉国家型の社会構造になっているので、彼女の長所が「能力」として評価されることはない。ここでは、いくら人助けや介護ができても学園都市が定めた基準を満たさない人間は全てレベルゼロの「落第者」として扱われる。上条さん然り、佐天さん然り。つまり、本来は社会に貢献できる能力を有しながらも、それがレベルとして数値化/定量化されて評価の対象にならないという制度的欠陥がある。

・本人の努力ではどうしようもならない要素によって人の価値が決められてしまう。
そもそも能力判断の基準がおかしく、本来評価されるべき能力が評価されていない。

こういう歪みがある場合、その世界の評価基準でレベルが低い人は絶対に幸せになれない。とっととそこから抜け出したほうがいいとしか言いようがない。いくら間違っているといったところで、社会を変えるなんて悠長なことをいってられない。あるいは佐天さんのように、「周りに中の良い人がいる」みたいな感じで無理やり生きる意味を見出しても良いが、それだと「友達」のみが支えになってしまうので、長期的には苦しいだろう。


というわけで(?)
ミソジニーとか恋愛工学って、結局「恋愛メリトクラシー(学園都市)」がおかしいってわかってるけど、その中でどうしても「能力者(恋愛巧者)」への憧れが捨てられなかったり、身動きがとれなくなって憎悪ばかりが膨らんできた人たちが「レベルアッパー」に手をだすみたいな構図とよく似てるなーとおもう。

レベルアッパーの設定忘れてる人多いと思うけど、これ使った人「脳を他人にハックされたあげく、ネットワーク化される」やつなので、大変危険だと思います。