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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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英仏百年戦争(後編-1)  現代に伝わるジャンヌダルクは、ナポレオンによる創作?

一つ前の記事で、フランスが瀕死の状態になりました。


フランスはシャルル6世の死後シャルル7世が即位しますが、シャルル7世は「アルマニャック派」と「ブルゴーニュ派」で分裂したうち、弱い方の「アルマニャック派」の支持しか得られていない厳しい状態。旗頭となるべきシャルル7世は、シャルル5世と違って即位した時点ではまだ若く、優柔不断でしかも無気力。とても希望の持てない状態でした。


一方、戦争で勝ちまくりだったイングランド側は、ヘンリー5世が死んで、ヘンリー6世に代替わり。ヘンリー6世は幼いので、ベッドフォード公ジョンが摂政になります。すでに有利なイングランドは、追い打ちとばかりに、ブルゴーニュ派と同盟を結び、さらにブルターニュ公の娘とも二重結婚を行って取り込みを図ります。

つまり

イングランドブルゴーニュブルターニュ VS アルマニャック派

の戦いとなって、完全にフランス側の詰みのはずでした



しかし、実際は、ブルゴーニュ派(&ブルボン公)はネーデルラント継承戦争にかまけててアルマニャック派との戦いには参加せず、ブルターニュ伯は今までずっとフランス王家になびかなかったのに、なぜかこの期に及んで微妙にアルマニャック派寄りになる(1426年ころになるとイングランドに寝返りますが)という展開になり、イングランドの目論見は失敗します。

イングランド VS アルマニャック

こんな感じですね。

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それでもヘンリー5世がまだ生きていればそのままイングランドが押し切っていたかもしれませんが、実際はヘンリー5世は死んだことで、国内で揉め事が続きフランス侵攻に注力しにくくなります。 

この時点で、フランスにとっては奇跡的にありがたい状態でした。そしてさらに、ジャンヌ・ダルクが登場するのです。

「オルレアン包囲戦」 なぜジャンヌ到着後短期で決着したのか?


ベッドフォード公は占領地の行政を丁寧に推し進めすぎ、シャルル7世は消極的すぎで状況が膠着していたが、イングランド川の主戦派であるウォリック卿とソールズベリ伯が、しびれをきらせてオルレアンを包囲する。


②半年近い持久戦になるが、ここで「ジャンヌ・ダルク」が登場。戦場に到着後、わずか10日にみたない日数でオルレアンを開放する。


③ジャンヌにまつわるエトセトラ。別の記事に書いてるので今回は省略します。

ヨランド・ダラゴン - Wikipedia
ジャンヌ・ダルクについて② 「ジャンヌ・ダルクまたはロメ」ジャンヌ・ダルク私生児説をベースにしたお話 - 歴史マンガはいい文明

ジャンヌ・ダルク以外の陣容は以下の通り。

フランス軍総大将 ジャン・ド・デュノワ
アンジュー貴族 ブイユ(オルレアン包囲戦の記録を残す)
シャバンヌ兄弟
サントライユ
ラ・イール

ブイユの記録に寄ると、半年も戦い続けてきたのに、ジャンヌ到着後になぜすぐに勝利できたかというと「防衛戦」「持久戦」だったものが「短期決戦」に変わったからだという。

勝利を収めた戦術は、各砦に分散したイングランド勢力に対して、戦力を集中して各個撃破する、というもの。ちょうど食料も付きかけており、また聖女の到着で士気が高まったため、少し無謀とも思える強引な戦術で一気に勝利をとりにいき、無事成功したらしい。

イングランド軍も、包囲戦のために兵力を分散させていたが、まさかフランス軍がこんな破れかぶれな戦術を取ってくるとはんだんしておらず、虚を疲れて各個撃破された。陣容を立て直せなくなり撤退することになった。


④フランス軍はオルレアンだけでなく「パテーの戦い」で野戦においても勝利を収め、快進撃を続ける。ついにシャルル7世はランスに到着して戴冠式を上げる。


これ以降のジャンヌはパッとせず、あっけなく捕まって処刑された。当然身代金など支払われることもなく、オルレアンや生まれ故郷のドンレミ村以外では忘れ去られたという。当時はその程度の存在であった、ということらしい。

現在のジャンヌ・ダルクのイメージは、ナポレオンの宣伝に寄るもの=司馬遼太郎による坂本龍馬ブームみたいなもの?

1803年、皇帝の地位につく前年に、雑誌「モニトゥール」で大々的に宣伝したのは、かつての救世主を自分と重ね合わせることで、国民の指示を集めようという一種の大衆操作であった。フランスのために献身した悲劇のヒロインというわかりやすいドラマ性もてつだって、ジャンヌ・ダルクの人気は一気に爆発した。列福が1909年、列聖が1920年と、宗教界の大権威であるカトリック教会が、かつて自ら異端犯罪人として罰したおんなのために動いたのも、同じく近代ナショナリズムの高まりに押されてのことだった。

同時代には、偉人でも英雄でも聖人でもなく、それどころか、ほんの一人前の人格さえ認められていなかった。ジャンヌダルクという名前すら、同時代の文書にはまれにしか現れない。当時の文書では「ラ・ピュセルと俗称されし女」であり、これは当時のニュアンスでは「下女」でしかなかった。せいぜい「娘さん」「お姉さん」という程度の意味であり、ありふれた名前を持つ若い女であり、それも奉公に出なければならない程度の身分と、それくらいしか伝えていない。まさに彼女が軽視されていた傍証なのである。シャルル7世の冷遇も、長らく続いた歴史形の無視もだいぶん頷けてくる。

彼女は、国王に仕えた忠臣としてではなく、あるいは偉人、英雄、聖人としてではなく、むしろ民衆の代表としてこそ、歴史に位置づけられるべきなのである
彼女は、いくつかの証言より貴族感覚を保たない庶民であったことが明らかであるが、その彼女の発言で注目すべきは異端審問の際に発した「フランスを救え」と言う言葉であろう。何度もこの時代は国という感覚が未熟であったことは語ってきたが、辺境の地の庶民であるジャンヌがこのような発言をしていたということは、ようやくフランスにもナショナリズムが芽生え始めていたことを認めても良さそうである

安彦良和の「ジャンヌ」全否定ワロタwww



ジャンヌの死後、フランスはシャルル7世を中心に結束する

ブルゴーニュ公とシャルル7世が休戦に合意。
 イギリス=ブルゴーニュ同盟を切り崩しにかかる。

②リッシュモン大元帥が宮廷で実権を掌握し、
 このためブルターニュ公も親フランス王家に傾く。

③アラスの和平会議にて、ブルターニュ公がシャルル7世と同盟を結び、
 シャルル7世をフランス王と認める。

④ジャンヌが結局入場を果たすことができなかったパリも
 ようやくシャルル7世を向かえ入れる。

⑤1439年 オルレアン三部会にて国王課税を復活させる

⑥1444年 盗賊と化した傭兵問題解決のため
 ロレーヌ遠征を行い、終了後に「勅令隊」を結成

⑦1444年 イングランドとトゥール休戦条約を結ぶ

⑧1449年 イングランドブルターニュ領侵略したことを理由に
 休戦条約を破棄し、イングランド領ノルマンディを攻撃し、ルーアンを陥落させる。

⑨1450年 ノルマンディを救うために上陸した
 イングランド郡をフォルミニーの戦いで破る。

⑩1453年 アテキーヌ地方にてカスティヨンの戦いで勝利。
 ボルドーを制圧して、カレー以外の全ての都市を取り戻す。



これにて百年戦争はおしまい……?