この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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コレガワカラナイ

ttp://nomuch.hatenablog.com/entry/2017/03/19/022520

いや、何を言ってるのか全然わからない。




そもそもの発端であったやりとりは知ってます。

ttps://togetter.com/li/956286

この際に「命を引き替えに人の言葉を封じようとしたことが問題」である点については、は強く同意するし、「こじらせ女子の日常」ってタイトルで雨宮さんをパロって怒らせた件も一応知ってます。「自分の死」という表現を安易に使って反論を防ぐのは言論人として論外だしそういうこと言うなら引退したほうがいい、というのは私もそう思う。というか当時私も批判記事書きました。



だけど、私は、今回の「タイトルについての批判」は全く同意できない。今のところは「どっちもどっち」とか「ほっておけ」じゃなく「能町さんだけが問題」だという立場です。気持ちはわかる、ですらない。何言ってんだこの人、という気持ち。



発端のやり取りから文脈をずっと引きずってる人にとってはつながってるのかもしれないけれど、単体で見た時に「インターネットで死ぬこと」というタイトルはは大げさであるだけであって、その表現が誰かへの当てこすりであるとは全く受け止められない。



本人ですら

この本を出す前にすでに北条氏は「インターネットで死ぬということ」の記事をwithnewsで書いており、それも私はもちろん読んでいるが、そのときはわざわざ批判しなかった。内容がいつもどおり、自分がなぜ批判されたかをすべて棚に上げ、批判に対する反論もなく「私はひどい目にあった」と繰り返すだけで、いちいち言及するにはあまりに幼稚な文章だったからである。誰か本当に死んだわけでもなかったし。

と書いている。このタイトルが別に雨宮さんに何の関係もなかったことは本人も認めていると思う。記事で書いているのは「命について軽率な発言をする」人であるのは北条かやさんにとってはデフォルトである、ということであって、別に雨宮さんには全く関係ないよね。




なのに、雨宮さんがなくなったらなんで急に関係性が発生してくることになるのだろう?

雨宮さんが実際に亡くなってしまった(もちろんこのことには北条氏は一切関係がないが)というのに、全く同じタイトルで本を出すというので耳を疑った。おそらく同内容だろうし、それはあまりにもデリカシーがなく愚弄だ。

この理路が、私にはまったく見えてこない。なんで北条かやさんが雨宮さんの死に配慮する必要があるのだろう。




いったいこのタイトルが雨宮さんと何の関係があるのか?タイトルだけで判断できる要素ある?私にはさっぱりわからない。





北条かや氏がモラルがない、自分かわいいばっかりの人であり、ろくに謝罪も出来ない人だというのは私も同意するし、「インターネットで死ぬということ」というタイトルが本の内容に対してタイトル詐欺であることもわかる。安易なパロディをする程度の人であることもわかるし「電通記念日」という言葉のセンスの悪さやデリカシーの無さもわかる。北条かやさんを批判するポイント自体は山ほどある。



それでも、雨宮さんと結びつけて記事タイトルを批判するのは私には意味がわからない。


私が相手にしないといけないのだ。なぜなら、彼女は「反論できない人を悪く言う」から

についても実例がないので、完全にレッテルだと思う。北条かやが嫌いなのはわかるし私もこの人のこと嫌いだけど、ほんとに何言ってんだろう?




それでも、この人に同意とか共感するのはかまわないと思います。 ただ、「能町さんの言ってることわからないやつは人間ではない」みたいなコメントみると「うーん。ごめんね。ほんとにわからないです」としか言いようがない。





追記:読み返してみたけど、ここかな?

「インターネットでも現実でも死んでいない人が、「のちに亡くなった人に、炎上させられて辛かったという話」を、「インターネットで死ぬということ」というタイトルで本にしているのである

この部分が事実なら、はじめて雨宮さんとの関連性が出てきますし、批判にも正当性が出ると思います。逆に、こういう記述がない場合はやっぱり納得行かないかな





追記

http://fujipon.hatenablog.com/entry/2017/03/21/013743
読みました。


ふーむ。以前私も似たようなことを書きましたが微妙にニュアンスが違う。
http://possession.hatenadiary.com/entry/2016/09/07/230124

で、fujiponさんと私の違いについてだけれどfujiponさんは「追い詰め過ぎたら行けないよ」とはいうものの、能町さんは「正しい」という立場なのですね。なんというか、その行為や主張自体を否定して無くて、やりすぎなければ構わないという主張のように思う。

これに対して私は、そもそも「スタート地点は正しかったかもしれないけど、今いる地点はとっくに正しさの枠組みを飛び越えてる」ということを考える。つまり「そもそも正しくないところまで来てしまっている」と感じるのです。 能町さんやはてこさんについては、「気持ちはわかる」は可能でもこれを「正しい」と認めるということ自体に違和感がある。私は、たとえ態度が悪くても、本当に正しいと思うならそれでも納得はできる。でも、はてこさんや能町さんに反発を感じるのは、そもそも納得できないから。それを正しいとは思えないからだ、と自分では考えてます。

fujiponさんの記事には、理不尽な先輩の例も上がっています。他人事だからかもしれないけれど私はこの先輩については単純に「正しくない」と思うのです。むしろ「正しいこと」も含まれているが全体として正しくない行為というのは、明らかにすべて間違っているものよりはるかに悪質だとすら思う。私はそういうものをこそを警戒する気持ちが強いです。ここでfujiponさんが自虐的にならず、もっと強くあの先輩は間違っていた!と言っても良かったんじゃないかなーと思ったり。別に正しくなくてもその場では恐ろしいからとか力でかなわないから認めるということはあっても良いと思うのです。ただ、それを「正しいから受け入れたのだ」「態度がわるかっただけだ」という風に扱ってしまうというのは、自分ではあまり考えつかない処理の仕方であり、考え方に大きな違いがあるなと思いました。


これについては、考え方が違う、ということがいいたかっただけで、fujiponさんが間違いだということがいいたいわけではないです。こういう考え方をする人もいるよ、ということだけ知ってもらえれば幸いです。