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高橋留美子の名言(迷言?)「SFとは半裸のねーちゃんである」について


において高橋留美子さんのすばらしさについて語られています。個人的にはおじさんですが現在の最新作「境界のRINNE」のアニメはめちゃくちゃ面白いと思っています。

なんといっても「まみやさくらとろくどうりんねのコンビ見てるとニヤニヤが止まらない」という一点に尽きる作品かと。このブログでも何度かぼそっと言及したりしています。是非来期からはじまる3期も見てくださいね。


さて上の記事に気になるコメントがありました。

三丁目某 on Twitter: "「SFとは半裸のねーちゃんである」という高橋留美子の至言を忘れてはならぬ。"
「SFとは半裸のねーちゃんである」という高橋留美子の至言を忘れてはならぬ。

昔高橋留美子が「SFとは何か」と問われ「半裸のねーちゃんのことだ」と喝破してて震えたこと思い出した。あとらんまの初期であかねの髪を切ったのはさすがとしかいいようがない。 - tokoroten999 のコメント / はてなブックマーク
高橋留美子が「SFとは何か」と問われ「半裸のねーちゃんのことだ」と喝破してて震えたこと思い出した。あとらんまの初期であかねの髪を切ったのはさすがとしかいいようがない。


私は初耳だったので、ちょっと確認してみました、どんな風に語られていたのでしょうか。

なんと、画像つきで保存されているありがたい記事がありました。はてなブログ以前のはてなーはホントに偉大な人おおい!

高橋留美子が1980年に書いたエッセイにおけるSF観・恐怖観と、作品との関わりについて - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

SFとはメカじゃないエイリアンでもない。結論はただひとつきれいなセミ・ヌードのねーちゃんである!

掲載はスターログ日本版1980年11月号。「SF枕草子(女流作家エッセイ・シリーズ改題)4」として見開き2ページ


興味深い記述はこのあたりですね。

「日常系」なんて言葉が語られるはるか前から「うる星やつら」や「らんま」など日常系の最先端を言ってた高橋さんの感覚って面白いです。

突然話題を変えてみる。自分の漫画を見ると恐怖ものではない。早い話が笑い話であるが、そこには私のいじましい、つつましい願望が露骨にかくされている・・・おかしな表現だけど、本当にそうなのだから仕方ない。自分が超人だったら・・・。こんなにハッキリものが言えたら・・・。果てはこのくらい体がスマートであれば・・・。すべて現実の裏返しである。と言うことは恐怖が裏返ってギャグになるのも当然のことのように思える。と、自分で納得してみたりする。とにかく超人願望、誰もが夢見るスーパー・ヒーロー。どんな危険なめにあっても絶対死なない。破壊の限りをつくしても正義の味方としてもてはやされ、顔がよくてスタイルが良くて賢い若者・・・目がしらが熱くなる。なんにせよ、「死なない」この一点に尽きる。誰だって死なせたくはない。準主役級なら、せめて人生最後にして最大のドラマ「死」をカッコよく死ぬとかそんなことを思うかも。

自分の中でSFがどのように解釈構成されているか。端的に言うと理解しがたいものはすべてSFである。だから数学や物理や英語は私のSFである。まるでアホであろう。そう思う。でも、これではあんまりなので視覚的な方面からせめてみよう。宇宙じゃない。メカじゃない。エイリアンでもない。結論はただのひとつ。きれいなねーちゃんである。しかもそのねーちゃんはセミ・ヌードでなければいけない。荒漠とした惑星の原野に肌もあらわに立つねーちゃんは現実では理解しがたい実に不条理な存在であるが、それが自然な世界、これがSFでなくてなにがSFなものか。これは私の「恐怖感覚」と双璧をなす「愛」の部分。私のSFはこの二大歯車が私の日常を軸としてつつましく展開している、せこい自己表現なのだ。

死生観と愛の部分。両方が大事なんですね。



この話調べてて他にも面白いネタあったのですが、それは帰宅後についきしますー