この夜が明けるまであと百万の祈り

私が元気づけられた出来事や作品についてのメモ。当ブログでは記事を読まずにはてなスター頻繁につけに来る人はお断りです

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「父の死を夫がSNS投稿」で「怒るに決まってるやん」となるのがわからない

「父の死をSNSに投稿した夫が許せない」という新聞記事に様々な意見が集まる - Togetterまとめ
に関して、私は別にそんなに気にならないので「怒るに決まっている」「怒らなければならない」という断定をされるとちょっとしんどい。もちろん「私は平気だから怒るべきではない」とか「怒ることはおかしい」というつもりもない。ただ、話題がヒートアップしていると、頭に血が登っている人たちに同意しないだけで「私がこの件で怒る気持ちがわからない人間は○○○だ!」みたいに言いだす人がいるのがものすごく気持ち悪いと思う。



以下めんどくさい話なので、絡まれないように可読性を下げて読む気をなくさせることにする。*1

以前に「毒親」や「いじめ」に苦しんだ人たちがネットで過剰に攻撃的に成る話をしたし、他にも「他の人がニュートラルな立場でもんだいについて論じている時に、自己実現や信念をかけて絶対に妥協できない人が来ると話が終わる」問題についてなんだかなーって話をしたことはある。

傷つけられて痛みを知ることができても優しくなるとは限らない - この夜が明けるまであと百万の祈り

とにかく「道徳」や「善悪」が絡む話になるとすぐに思考が固定化して一切異論を許さなく成る人たちというのが私はすごく苦手だ。その人たちの道徳観に一定の理解を示すことは可能だが、だからといってその道徳観や「~べき」がすべての人にとって正しいと思われるとそれは行き過ぎでしょう、と。私は思考が固定されてる人とは話がしたくない。そういう人たちにとって人と話をするということは「自分の意見を相手に受け入れさせるプロセス」でしかないからです。コミュニケーションをそういうものだと認識している人と話をしても困る。


まぁ、私もリアルでそういう人にあったら、よほどのことがない限りは適当に話を合わせてすぐに退散する。この手の人達は、基本的に話を聞いてうんと言ってもらえればおとなしくなる。他人に異論を許さない代わりに、他人になんらかの行為を強制しようとしたり、逆に禁止しようとしたりはしない。そうでなければリアルの人間関係はとっくに破綻しているはずだからだ。少なくともその人の部下とかでなければゴリ押ししてくることはまずない。

ネットであれば「くたびれは○こ」さんや「○るん」さんのように、自分の意見を一切妥協しない上に、それを他人に押し付けようとするタイプの人間はいる。しかしこれは「どうせネットだから」と割り切っているか、あるいはネットに引きこもりすぎてまともな人間関係を構築できていないからだと思われる。そういう態度で関係が持続できる可能性は低い。多様な人間と付き合おうとすればそういう態度では行き詰まる経験をして、少なくともそういう態度だけでは成り立たないことは学習するはずだ。どちらが原因かは興味がない。とにかくそういう態度の人の相手をするのは御免被りたい。

私はネットの会話では「意見のやりとり」がしたいのだ。その際に「意見の違い」が許容できないでは話にならない。




と思っていたら、こんなFacebookをみかけた。

大久保 康平 - わたしはこの新聞投稿者がなぜここまで夫に怒るのかまったくわからないが、そんなつまらんことで奥様と喧嘩... | Facebook

わたしはこの新聞投稿者がなぜここまで夫に怒るのかまったくわからないが、そんなつまらんことで奥様と喧嘩したくないので、奥様と子供の顔は一切SNSにアップしないというわかりやすいルールで合意している。

だいぶ端折って書いてしまったが、私が「わからない」のはこの短い投書だけの情報源から「そんなん怒るに決まってるやん」というコメントを出してる人達の気持ちです

「合掌。義父急逝」は文章としては申し分ないと思うのだけども。これがダメという人はどういう文章ならOKなのだろうか。

というわけだ。はてブでは「怒るべきだ」という答えが固定されていて、その上で、怒るべき理由をあれこれ出している人たちが多かったが、私はこういうのが嫌なのだ。
「画像アップしたのがいけない」とかまぁいろいろ怒るべき理由があるのはわかる。怒る人の気持もわかるし、別にそれを否定するつもりはない。そうではなく「絶対に怒らないといけないわけじゃないよね」とか「私はそんなに怒る気持ちにならないのだけど、どういうところに怒っているのか教えて欲しい」って態度を許容してほしいのだ。このFacebookでは、「怒らない間違っている!」「これについて怒らない人間は○○○なんだな」と問を否定せず許容・尊重していていろいろ面白い意見が出ているのがとても良いと思った。


とりあえず「そんなん怒るに決まってるやん」の人たちの気持ちについては厳密な表現はきっと「自分が同じことされたら怒る」であってその裏の理由は多分みんなそこそこ違うんじゃないかと思います。違う人間なんで。「投稿者が怒っている」というこの場の大前提に全乗っかりしてみんな思想が一致団結しているふうに見えるかんじだけどきっと細かく説明させあったら色々出てくると思います

怒るのに賛同な人々の怒りトリガーは、投稿者と必ずしも一致はしないと思います。怒りトリガーになりそうなものは上記で書きましたけど、賛同者はその中のどれかに該当して賛同してるのではないかなと。「いや、どれもここまで怒るには至らないだろう」と思わなくもないかもしれないですが、怒るに至るまでの蓄積が彼らの人生にはあるわけですし、この短文だからこそ、勝手に行間を膨らまして、共感→賛同→怒りを表しているのかもしれません。


・似たような「死にまつわる直感」の事例として、事故現場をスマホで撮影していると嫌な気持ちになるという現象がある。実は後の事故対策や冤罪防止やレスキュー対策にすごいに立つから間接的に人命救助になる可能性のある行為なんだけど。直感的に「不謹慎だ」と思う人は多い。


などなど。

「個人」があまりに軽視されすぎて、個人に紐付いた文脈みたいなものが全く考慮されなくなると、ネットでできる話って薄っぺらくなっていくよね

もちろん、これは「質問者」と「回答者」の間に人間関係があるからこそだろう。質問そのものというよりは、質問者自身が尊重されているわけだ。こういうのはまぁ、オープンなネットの場では難しいのだろうなぁ。むしろそういう属人性を排除していこうという流れが多かったから。

でもその結果、「なんとなく同意しやすい話」が人気に成るのってなんか超つまらないなぁと思う。そして、そういう数の暴力が個人を潰していくみたいなのもすげえつまらない。「皆にとってわかりやすくて良い話・正しい話」なんか、個人にとってはほんとどうでも良いはずなのに。そうやって、自分で考えずにみんなに合わせるのが気持ちいいみたいな考え方とかリアルそのものやん。冗談じゃないわって思ってしまう。

……ああそうか、私は比較的「正しさ」とか「形式」にこだわる方だけど、それでもポリコレとかが嫌いなのはこのあたりが原因なのかもなー。個人的に、上のtogetterの話とかポリコレの話は私の中で同じくらい吐き気を催す。ワタシにとっては、右翼とか左翼とかよりも、こういう「答えを一つに揃えよう」って態度そのものが気持ち悪くて仕方ない。別に異端を気取ってるつもりではなくて、むしろわたしは平凡な人間だから、たいていは「みんなの意見」と自分の考え方が一致する。それでも、その場でたったひとつの答えが、自分ではない変わった人の意見を抑圧しているのを見るのはなんか気持ちが悪い。だって、その空間だったら私の意見要らないじゃん。ねっとであれば、意見がいらないなら私自体も要らないよね。自分がそこにいる必要性を否定されてるのに落ち着けと言われても無理ですわ。



みたいなことを思った。

*1:私はややこしい問題について可読性を上げることほど危ないことは無いと思ってるので、そういうことを平気でやる炎上ブロガーのことはただのアホにしか見えないが、そういう人たちの方が需要があるのはよく分かる