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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「オフィス北極星」7巻 日本人の孤独

「俺に、彼の考えていたことを正確に君たちアメリカ人に説明できるくらいなら、こんな事件そのものが起こりはしなかったさ」


についての感想を書いたらボコボコにされて涙目なのですが、上の記事をもっとえげつなくしたのが「オフィス北極星7巻」です。私はこの7巻を読んで共感する立場なので、上の記事で「女性の人が傷つくのはおかしい」とか「男側に問題がなかった」なんて全くこれっぽっちも思っていません。そのあたり全く伝わっておらずに「女の気持ちがわかってない」とか「ミソジニーだ」とか散々に言われてちょっと傷つきましたわ……。


7巻では、日本人夫とアメリカ人妻の離婚訴訟が繰り広げられますが、このときのアメリカ人妻は、離婚理由をこう述べています。

「夫が多忙だからといって離婚したりしません。私は夫を、夫の仕事を理解しようとつとめました…でも、私は無視されたのです。彼にとって、私という人間は無に近い存在だったのです。無よりも悪い、有害な存在だったのかもしれません。」

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だいたい上の記事と同じこと言ってますね。些細な事じゃなくて、この部分こそが核心なのだというのはよくわかります。



なぜ彼女がこう感じるに至ったか、という過程についても、ほぼ上の記事と同様の流れになっています。そのあたりはぜひ読んでみてほしいのだけれど「尊厳」を傷つけられるというのは耐え難いことであり、それは時に人の命をも危うくする、というのはよくよくわかります。

そういうわけで、夫に責任がないなんてことはありえません。彼女が深く傷ついたことは間違いないし、夫から妻への接し方はあまりに問題がある。文化の問題だけでなく、この夫個人にかなり問題があったと思います。たとえ愛していたからといって許されるものではないし、愛しているならもうちょっとやりようがあっただろうって感じます。

文化だけを言い訳にすることは出来ないし、すくなくともまず妻がそれほどまでに傷ついており、それについて自分が原因であることを認め、まずそれについて謝罪をするべきだった。

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もはや話し合いのできる状態まで相手を追い込んでおいて、「話し合えばわかる」などというのは許されない。この態度は明確に間違いだろう。


だから、裁判長が夫を責めるのも間違いではない。
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私は上の記事に関して「文化コードの違い」を述べた記事を書いたわけですが、そこで私をボコボコに殴ってきた人たちは、きっとこの裁判官と同じようなことを考えていたのだと思います。「この期に及んで男女の違いに逃げるのか」「責任逃れをしようとしているのか」と思ったんでしょう。記事だけ読めばそういう人がでることは仕方がないと思いますから、その人達が読解力がないとはいいません。*1

でも、私は、そういうところで言い争うつもりは、上の記事においても全く無かったのです。結果が起きた後で補修をしようとしようとしても意味なんて無いことはよくしっているのです。私もそういう失敗はしていて、そこで全く反省をすることがない、なんて思わない。





それでもなお、そこで話を終わってよいのか、という気持ちが強い。そこで話が終わってしまったら「最初からお互いのことをよく理解してきっちり話し合って何一つ問題が起きなかった人たち」以外救われないじゃん。

私がいいたかったのは、両者の間に発生した傷を和らげる方法はあったんじゃないかってことだ。この件で起きていたのは、すれ違いである。殺人とか強盗のような、積極的に相手を傷つける意図を持って行われていたものではない。しかも交わりはしなかったけれど愛はあった。そのことが全否定されるというのはどうにも納得行かないしツラい。「自分は確かに相手のことが好きなのにその感情が通じず否定される」ときほど孤独を感じることはないだろう。


これは「男だから擁護したい」とかとは全く別の話だ。私はこういう事例はどちらにも起こりやすいのではないかと思っている。空回りしながら自分の愛の伝え方には何の問題も感じておらず反省せず改善しないくせに相手のの側にだけ一生懸命不満を述べるのは男性だけではないだろう。むしろ、男だからそう思うのかもしれないけれど、女性の愛の伝え方や評価の仕方もかなり空回りが多いと感じるくらいだ。こういうのはどっちもどっちなのだ。そこを認めないとダメだって言っているだけなのだ。前の記事で私に辛辣な言葉を投げかけていた人たちは、自分の愛情がきっちり届くように努力し、受け取られている自信でもあるのだろうか。「伝える側にパーフェクトを求めずに、受け入れる側が寛容になったほうが良いのではないか」「無駄に悪意を読み取ったり疑念を持たないほうが良いのではないか」「今の状態に不満があるとして、相手のダメ出しだけじゃなく自分側からできることを考えられないか」という話自体に反対なのだとしたら、多分何かバランスが崩れていると思う。



愛は「証明できない」 証明を求めてはいけない。どこかで、自分の意思を持って信じなければいけない


これはうみねこのなく頃にEP6からの引用ですが…

私があなたを愛し、あなたが私を愛したたくさんの証拠が見つかった。
あなたが浮気をしていない証拠だけ見つけられない。

「ま、赤くない言葉でいくら愛をささやこうとも、すべて幻ですが」
「……かわいそうにな。お前は魔女に証拠が与えられなかったら、人も愛せないんだな」

「愛がなければ視えない?ハッ!逆なんですよ。愛なんかあるから、ありもしないものが視えてしまう」

「愛さえなければニンゲンは虚実など何も見ずにすむ。虚実が視えてしまうから、惑い、苦しみ、泣き叫ぶ。私はいま幸せです。もう私は昔のように赤くない言葉に苦しめられなくて済むのだから」

「証拠なくも、現在もエリカを愛していることを表明しマス。証拠がないのなら赤き真実を使えませんカラ。いえ、赤き真実ではありマセン。ニンゲンは赤き真実を使えませんカラ」


「エリカ、あなたはベルンカステルの駒になる以前から実に見事な青き真実(心証)の使い手です。しかし、ニンゲンに許されるのは青き真実ダケ。そして青き真実に反論できるのは赤き真実だけデス。ならば、どうやってあなたのお相手は真実を示せばよかったのデスカ」

「彼に返す手はそんざいしなカッタ。このゲームは、本当の真実にかかわりなく、彼の真実がどうあれ、エリカが勝利できるものだったのだカラ」

「たしかにこのゲームはエリカの勝ちです。しかし彼が示した、あなたを今も愛しているという青き真実の証拠6点は今もまだ否定されていません。あなたさえニンゲン。それを否定する赤き真実は使えはしないのデス」

このあたり前の事実から目をそらして、愛が証明されなければ満足できないっていうのであれば、もうその時点でアウトだと思うよ。

*1:まぁ「自分文脈で頭がいっぱいで、こっちの文脈を読み取ろうとしてくれない」というのは仕方がないからそこは甘んじて受けるにしても、さすがに目に余る暴言を書いた数名と、私の主張を無化しようとするコメントを書いた人は非表示にさせていただきましたが