この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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自分と向き合うために自己を「疎外」することは時に必要だが、ずっとそればかり続けていてはいけない

野間はオタク差別全盛期の差別当事者
読みました。

これを読んで思い出したのが「疎外(alienation)」という考え方*1

この「疎外」について思ったことを適当に書いてみる。自分語りが多く、ゴチャゴチャしてるのであまり読みやすくないですし、興味がない人には何いってんのかわからない話だと思うのでそっ閉じ推奨。


「疎外」=「ペルソナ」と「シャドウ」

私はぶっちゃけ野間という人を全然知らない。この人についてはしばき隊とよばれるめんどくさい人という認識しか無い。負の側面しか知らないということはその人のことをよく知らないということだ。そういう知らない人について語ることは出来ないので、「野間という人の実物「について語ることは出来ないが、「私が増田の文章から読み取った野間という伝聞上の人物」について語るのであれば……

自分の中から外に取り出され、生み出されたものが、やがて自分に対立し、自分にとってよそよそしくなること、自分を支配さえしてしまうことを「疎外」という。自分の中にあった****の甘美な思い出を、叙述して対象化し、客観視することで疎外したのである。そのことで、その甘美なものを崩壊させていった。甘美なものではなく、あれは****ではなかったのかのか、と。

この人は上で言う所の自己疎外をずっと続けてきた人なのだろうなと感じた。

「疎外」という言葉がわかりにくいという人のためにニュアンスがずれることを承知で別の言葉で言い換えると、これはネガティブに言えば「離人症解離性障害」とも言えるし、ポジティブに言えば「ペルソナ」を自覚的に運用するってことだと思う。

ある程度の離人症や現実感喪失は、一時的な不安やストレスなどによって誰にでも起こり得るものである。慢性的な離人症は、重度の精神的外傷、長期持続したストレス・不安などに関係している。離人症・現実感喪失は解離性障害スペクトラムにおいて最も重要な症状であり、これには解離性同一性障害や特定不能解離性障害などが含まれる

倉田さゆり懐かしい。実際程度がひどいとシャドウに飲み込まれそう。


「疎外」そのものは、用法用量が適度であれば悪いことではなくむしろ自己と向き合う手段としてとても有効なもの

ちなみに上の紙屋研究所さんの記事では「疎外」というのは決して悪いことばかりではないと語られている。
これは決して逃避ではなく、むしろ自分と向き合う際に、そのプロセスが必要になることはあるのだと語っている。

書くことで、あるいは書かれた創作物を経由することで、自分の中の欲望をコントロールしたり、客観視しようとしたり、挫折したりする

単に客観視するだけではない。そこに自分の欲望をこめてみたりする。つまり積極的に嘘をまぜてみる。虚構をくぐることで自由になれる

書くという行為に人生が救われる、ということは、ぼく自身の思いでもある。疎外を味わうことは、文章を書く人間にとって、決して嫌なことではない。そして自分に対立してくるものが描けなくてはおよそ成功しているとは言えない。

これは夏目漱石の「仮構」の話にも通じる。

http://tyoshiki.hatenadiary.com/entry/2015/04/30/231813

他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである

たとえ話が、ではなく、たとえ話としてしか言い得ないということそのものが、であり、本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ

「他人と共有し得ない痛みを持つ」人間、あるいは「自分の中に自分でもしっくり来ないものを持つ」人間は結局自己を確認するために、何らかの行動を取る必要に迫られるわけだ。

自傷行為」も「疎外→創作やキャラ作りの方向」も「分裂症」も。現れる現象は大きく異なるが根っこは似ていると私は感じる。

その両方を一人で体験した人のレポとして下記のような作品も挙げられるだろう。

この人は疎外に抗おうとして自傷的に行動し、それから創作にシフトして生還を果たしているし、今も有効に活用しているという印象だ。


私のブログも「疎外」をポジティブに使おうとする試みだった

自分を切り離して自分を見たり、自分が理想とするものを自分の外側に表出し、それらからフィードバックを受けることで自分にプラスの効果をもたらすことも可能だ。

私がインターネットに求めていた自由とはまさにそういうものだった。自分を自分から切り離し、自分が望む理想の自分を仮構し、その立場からアウトプットをすることで、自分もそちら側に近づけるようになりたいというものだ。
懺悔というシステムがメジャーでない日本にとって「本当の自分を一時的に棚に上げる」ことが許されるネットは私のような自己肯定感が低い人間にとって、とても重要であった。


押しつけられたレッテルでも、偽りの役割でしかなくても、本質が邪悪そのものであっても、その行いが英雄のそれであるならば。きっと、私たちのような醜悪な存在が英雄になれるとしたら、そこにしか道は無い。意思すること。本質に、その性さがに、その起源に抗うこと。「貴方の本質じゃない。貴方が意思するその姿が私は好き」

私のブログ記事で最もアクセスが多い記事は実はこの記事なのですが、この「偽りても賢に学ばん」こそが、当初私がネットに抱いていた理想だった。

昔のネットを美化して語る人は多かれ少なかれそういう意識の人いたのではないだろうか。イシキタカイ。
そのせいか、ありのままをさらけ出して肯定てもらおうとしたりアフィカスする人にはあたりが厳しく、互助会しばき隊みたいに振る舞ってしまったりもする。(あっすでに野間さんの行動原理がすこし理解できるような気がして来た。)


ただ「疎外」はあくまで「幽体離脱」や「自己複製」のようなものであって、そのものになれるわけではない。それを誤解して依存したら最悪自分が死んでしまったり、仮の人格との齟齬で消耗する

ところで私がずっとウォッチしている「青二才」こと三沢文也さんという人がいるが、彼はまさにこの「疎外」をフル活用していた人物だ。彼が自分を元に生み出した「青二才」というキャラを活用することで、かつてネットの中に自分の居場所を確保して、はてなという局所限定では有るが一時期アイドルのような扱いになり、ブラック企業などで消耗して朽ちかけていくというリアルから脱却することに成功した。ちょっとしたVtuberの先駆けのようなものと言えるかもしれない。それ自体はとても良かったし先見性のある行為であったと思う。しかし、それに依存しすぎた結果今はそれが重しというか呪いになって苦しんでるように見える。(※あくまで私の感想です。事実は全然違うかもしれません)


以前は私も彼のことを「青二才さん」と愛称で呼んでいたし、今でもネットではそう呼ぶ人が多い。けど、少なくとも私はそう呼ぶのをもうやめた。なぜかというと、実際に彼に会って話をしてみたら、彼はたしかにいろいろ欠点はあるがとても良い人(常識人)だと感じてしまったからだ。(※大事なことなので二度いいますが私の感想です。事実は全然違うかもしれません)


非常識に見える言動は彼の無知や社会経験の不足、そして発達障害による理解の違いや早とちりによるものであり、そういった弊害がなければ思考自体は実に常識人のそれであるし、人格も実に善良な方だと私には感じられた。彼は「青二才」ではない三沢文也自身のことはかなり客観的に認識できていたし、良くも悪くも私と同じく発達が足りてないけど、私なんかよりよほどまともな人、という感じだった。「青二才」というキャラの態度はかなり意識して作っているのだなということが伺えた。

そういう意味で、彼が頑張れば頑張るほど彼が理想とする「青二才」というキャラはコンテンツとしての伸びしろが非常に少なく今後「無理」が出てくるとしか思えなかった。なぜなら、もし彼が私の感じた通りの状態なのであれば、知識を習得したり経験を積めば積むほど、常識的なアウトプットに近づいていくということになるからだ。(※何度も繰り返しますが、あくまで私の感想です。逆に彼からしたら私ってもっとつまらん人間に見えてただろうしね。)

斜に構えた「青二才」というキャラの恩恵は現時点でもそれほどおおきくない、むしろマイナス要素のほうが大きくなってきているとするならば*2、結局彼は今後三沢文也という個人の能力で勝負する必要が出てくる。 短期的にはせっかく築いたキャライメージやSEO的な優位も有るだろうが、長期的にはまっとうに好きなことや前向きなことを語って仲間を増やしていったほうが良いのではないか。。。ということを勝手に考えてしまったわけだ。


実際には三沢さんにはもっと優れた考え方があるのかもしれない。私の考え方は全然間違っているのかもしれない。たとえばfujiponさんの言うように「ネットが主、リアルが従」という立場なら「優先順位がそもそも違う。三沢文也より青二才のほうが大事だ」という戦略も当然成り立つ。それでも上記の理由から「青二才」キャラで戦う戦略はおすすめしないが。

ただ、私はどうしてもネットの方が主になりえるとは思えない古い人間であり、その結果もう私は「青二才」というキャラを応援するつもりがあんまりなくなってしまった。(※しつこいけどあくまで私の勝手な感想です。この考えを三沢さんに押し付けるつもりは全くなく、ただ私はもう彼の「青二才」というネット上のキャラとして扱うのをやめて、三沢文也さんという個人の人格の方を尊重することにしたと言うだけです。三沢文也さんという個人に対しては好意を持ってるし期待してます。)*3



閑話休題



野間さんの話に戻る。こちらも実物は知らないが「私が増田の文章から読み取った野間という伝聞上の人物」については、最後まで「疎外」の結果生み出されたキャラクターに依存し続けた結果の成れの果てのように見える。 

人間、常に自分の現実と向き合い続けるのはしんどい。そんなんよほどのマッチョじゃないと厳しい。だから、精神衛生上常に自分から離れる時間や機会は取るべきだと思う。しかし、ずっと自分から離れ続けるべきではないということもまた言えると思う。


その当たり、上で述べたように、ネットに理想を求めている私も他人事ではなく気をつけなくてはいけない。
「ネットへの依存率は5%以下に抑えるべきである」と池田仮名さんはおっしゃっていたし、実際齢30を過ぎてネットに注力している人はそんなにいない。

他の人はどうか知らないけど、私はもっとリア充を目指していきたいと思ってるし、ネットはそのための手段であるという認識を維持したい。

つまり何がいいたいかと言うと……

「ネットを捨てよ!外に……ってやかましいわ( ‘д‘⊂彡☆))Д´) パーン

*1:wikipediaによると、自己実現のプロセスとして労働を捉えたヘーゲルを批判的に受け継いだマルクスは、資本主義社会における「疎外された労働」を問題とした。そしてこの「疎外」を克服することによって、人間はその本来の自己を取り戻し、その可能性を自己実現できるものとした。この考えが後の「資本論」の土台の一つになっており、超重要な概念である

*2:※実際に、togetterでは短期的な炎上PVを求めて安易なまとめを作りすぎたせいか、もはや何を書いても「またこいつか」という扱いを受けるようになってしまっている。「魔理沙アイコン」や「青二才」はセルフまとめの痛い人、という負のブランドイメージになっている

*3:こんな線引どうでもいいだろと言う人が多いと思いますが、私は「二次元のキャラ」は遠慮なくいじるが「三次元」の人間に対するいじりは基本的に厳禁と明確に対応が変わるので私の中ではとても差が大きいです