この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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「罪のない創作話」と「唾棄すべき嘘松」の違いについて

大した話でもないので結論だけ先に書いておきます。あくまで個人の感想です。

嘘かどうかも問題では有るけれど、嘘松」批判において一番重要なのはそこじゃないだと私は思ってます。

通常の会話において事実が重要なのは言うまでもない。けれど、嘘松」=「腹話術によって藁人形をこさえる行為」というのは、事実かどうかを判断する必要すら無くその形式自体がアウトと認識すべきかと思います。つまり、事実かどうかを判断する前に門前払いすべきです。発言者が「これは事実だ」と言い張っても、また仮にそれが事実だとしても嘘松嘘松です。

少なくとも私にとっては。

嘘松だとかそうじゃないという話をしている時、批判している側にとってはそれが真実かどうかはどうでもいいです。だって、本人の自供以外、検証の仕様がないじゃないですか。で、本人は嘘ついてたとしたら認めるわけないじゃないですか。 じゃあ、大事なのは受け取り手の心証ですよね。それなら「相手に提供する判断の材料として、話者の話し方は適切だったかどうか」を考えたほうがいいと思う。 

そこさえわかってれば、話者としては他人から馬鹿にされるような「嘘松」的な話をしなくても済むし、読み手としても「嘘か本当か」を気にせず、読む価値の有る話かどうかっていう基準で判断ができるようになると思います。

ネット上の話が本当かウソか、は実は大した問題ではない。「嘘松」呼ばわりされるツイートをしてしまったとしたら原因は別にある

私は罪のない作り話はそんなに嫌いじゃない。特にネット上の創作はなしなんて、嘘か本当かなんて自分にはどっちもいいことだ。だからこういう話だったら、もし多少創作や誇張が多少あったとしても特に問題だと思わない。


だがてめーは駄目だ。


これは「真実か否かに関わらず」嘘松として唾棄すべき発言だと私は考える。こういうツイートをする人間は二度と信用することはない。一発アウト。

この発言の場合、まず論理的におかしい。さらにリアリティチェックの時点でアウト、とすでにツーアウトが確定している。さらに今からいう「話者の意図」という意味でスリーアウトチェンジであり、全くお話しにならない。

これがなぜ嘘っぽいかわからない人は、はてなブックマークで散々突っ込まれているから確認してください。まず間違いなく創作話だと判断して問題ない。だが重要な問題はそこじゃない。もし事実であってもこういう発言をする人は駄目だ。

嘘松」という表現で馬鹿にされる話というのは嘘かどうかよりも発言者の意図が問題だと私は考える。簡単に言うと「そんな発言で人を説得したり同意を得られると思ってる時点で、お前は俺をコケにしている」と感じさせるところが問題なのだ。しかも、本人はこの発言を問題だと感じていないところが更にまずい。

大事な話をする時に「要は勇気がないんでしょ」メソッド(マイフレンドジョン・テクニック)を使うやつは信用に値しない

マイ・フレンド・ジョン・テクニックって何? 彼の心を操る恋愛ワザ(2015年8月20日)|ウーマンエキサイト

マイ・フレンド・ジョン・テクニックとは、相手に意識させたい内容を、友人から聞いた話や一般論の中に意図的に含ませて、そのイメージを植え付ける話法。

「彼につき合うことを意識させたいのであれば、ジョン(友達の名前)の話なんだけどね、などと切り出し、最近つき合い始めた友達の話を出す。その際、“楽しそう”など、ポジティブワードをたくさん使うのがポイントです」

営業トークや、相手の気持ちを前向きに後押ししたいためのたわいない嘘、程度ならまだわからんことはない(私はそれも嫌いだけど)。何度も言ってるけど嘘かどうかが問題なのではない。人の思考を露骨に誘導しようとう意図が明らかなのに、それを隠そうとする、それについて責任を回避しようとする態度が気に入らないのだ。

嘘松」の3つの条件=「作り話しによる思考の誘導を企図」「自分の発言責任を回避」「サンプル数1の一般化」

次の記事を読んで欲しい。この記事は「嘘松」の問題を非常にわかりやすく示している。

この記事は「実際にこういうやりとりがあったと信じるに足る」=「嘘ではない」のだが、駄目だ。すくなくとも私にとっては。

この記事はとてもグロテスクだ。
(1)友達の話を使った思考の誘導
まず明らかに「友達の話」を使って、読み手の文章を露骨に誘導しようとしている。

(2)自分の発言責任を回避
一方で記事を書いておきながらも筆者は「自分はそんなこと言ってませんよ」「自分はこうすべきだとは言い切ってませんよ」という逃げの体制をとっている。(この記事に限って言えば、本当に悩んでいる部分もあるとは思うが、しかし結論は「友達の話」に傾いているのは間違いない)

(3)サンプル1の発言や事例を意図的に一般化
さらにいえば、話の中の「友達」は男友達なのに、なぜか女の人のイメージを持ってくることで、友達のメッセージを一般化しようとしている。一つの事例を一般化しようとしているわけだ。

この3つが組み合わさると、どんな記事でもクソになる。(最近ニャートさんの記事がこんな感じになりかかっていたのでちょっと注意して欲しいと思う)

誤解のないように言っておくと、この記事の筆者は、先に取り上げた「中国人の友達」ツイートの人と比べるととても誠実だと思う。だからこそ、この態度を取り繕うこと無く、そのままむき出しで読者に差し出してしまったわけだ。そのおかげで読者にはその問題性があますところなく理解できる。


「中国人の友人」ツイートの問題点を振り返る

こちらは(1)において「自分の言いたいことを中国人の友人にそのまま言わせている」のが露骨に伝わる。なぜなら「要は勇気がないんでしょ」の方では形だけでも友人の話に留保をつけているのに対し、「中国人の友人」の方は否定しないどころか、それに便乗している。ツイート主はその後も「言い換え」はするけれど、この友人の発言を受けての自分の主張はしない。

「この支離滅裂な受け答えをする友達」の話が真実だったとしても、まさに(1)(2)にがっつり当てはまる。後付で(3)を否定しているようだが、最初のツイートの時点では明らかに(3)も意図していたように感じる。

いずれにせよ、真偽の検証も出来なければ、話者としての責任も取らない。何が言いたいのかさっぱりわからない。発言の意図を明確にせず、それでいて察してちゃん状態になっているのも気に入らない。聞き手にストレスを与えるためだけに発言をしているとしか思えない。 そして、そんな発言について本人は上手いことをいったつもりで「これを私なりに言い換えるとー」とかやっている。もうやめて、私のSAN値は限界よ!

比喩やたとえ話に対する私の感情についてのメモ - この夜が明けるまであと百万の祈り

比喩が有効に機能するためには必要条件があると思います。「話し手が伝えたいことについて、少なくとも本人はしっかりと理解できていること」です。その上で、比喩が、本人の伝えたいことを的確に表現できていた場合についてのみ価値があると感じます。下手くそな比喩と、説得のための喩え話は無価値な上に不愉快だけで私にとって百害あって一利なしなので削って欲しいと思うことが多々有ります。

というわけで、1ツイート内ですでに論理が破綻しており、その破綻した論理を「友人が言ったことですから」と言って取り繕って自分の発言を責任を逃れつつ、これを考えてるのは自分だけではない、というイメージを押し付け、一般化しようとする。都合が悪くなったら「サンプル数1ですから」と手のひらをクルーする。

いきあたりばったりすぎるにもホドがあるだろ。もうちょっと自分でちゃんと考えた上で、十分咀嚼してから自分の意見として語れよ。「自分に自信がない」のに「自分の意見は正しい」と思い込んでいるアンビバレンツな状態に陥ってる人の発言だと思いました。


一見しんどく思えるかもしれないけど、一回出しちゃったら取り返しがつかない「他人の感想」より「個人の感想」の方がなにかと楽だよ

ちなみに、冒頭でも書きましたけどこれは個人の感想です。「嘘松」ってそうじゃないよ!っていう異論は認める。

おいおいって思うかもしれないけど、これすごく重要なことだよ。

「個人の感想」なら、私個人の問題だから、自分の意思でいくらでも調整できますよね。他人の意見を聞いて変えることだって全然OKです。一方「他人の感想」って一回だしちゃったら、自分の意思だけではもう変更出来ないよね。反論がきたりツッコミが来ても取り返しつかないよね。だって他人の話なんだから。厄介だよー。

なんかね、「他人の話ってことにしたら自分は責任取らなくてもいい」って安易に考えてるのかもしれないけど逆だよ。「いざという時に責任が取りきれない」んだよね。嘘なら自分に責任が戻ってきてしまう上に、後から修正もできない。うっかり「他人の話」として持ち出してしまったばかりに詰み状態に陥ることも有るよ。

それなら、他人から馬鹿にされるかもしれなくても「自分の感想」を書いたほうがなにかと楽でいいと私は思うけどな。