この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

【スポンサーリンク】

「問題点を指摘するマン」と「瑕疵ある人間絶対追込むマン」 この2つを区別したいところ

今のネットは、批判されること自体を極端に嫌悪する人が増えていると思う。

この理由について、一つにはLINEなどのプライベートなネットコミュニケーションしか知らない人たちが、違いを意識せずにtwitterやブログなどに無防備に使い、パブリックなコミュニケーションに拒否反応をしてしてしまうからだというのは昔から言われている。

「ぼくのことを全く知らない人に向けて文章を書くのと、ぼくのことを知ってる人に対して文章を書くことは全く別の競技」ということに気づくのに、2年ぐらいかかった。

http://tm2501.com/my_blog_life_history

今はこういう人たちのほうが多いくらいではないかと思う。「ネットはプライベートなものであり、見知らぬ他人から批判なんかされたくない」って考えてるんだろう。

少なくともブログはパブリック対して己の思考や信条などを公開するものだと考えている私としては、老スネークじゃないけど「ネットは、変わった……」とかつぶやきたくなる。



ただ、これだけが問題ではなく、最近さらに批判への拒否感がつよくなっているのは、下のブコメにあるような「瑕疵ある人間絶対追込むマン」の存在も大きいだろう。他にも「正義の暴走」とかいろんな言い方がされているが、批判「しすぎ」たり、批判「というよりはただのレッテル」みたいな人たちが目立っているせいで、批判という行為そのもののイメージが非常に悪くなっているのではないか。

それを非常にわかりやすく表現してくれているのがこのブックマークコメント。

ジェームズ・ガン監督、10年前の差別ツイートが問題視されて新作映画をクビに→おフェミさん「10年前のツイートを蒸し返す右翼はクズ!」「ポリコレは他人を叩く為の手段じゃない!」 - Togetter

「問題点を指摘するマン」と「瑕疵ある人間絶対追込むマン」。後者のせいで前者が非難されたり行動できなくなるの我慢出来ないのでなんとかしたい……ただ多くは単なる野次馬なんで批判が届く所に居ないんだよなあ

2018/07/22 04:22

私は他に「自分が気に入らないものは何でも攻撃するマン」や「ちゃんと読まずに周りに引きずらて石を投げるマン」などもあると思っているが、最低でもこの2つは認識され、区別されたほうが良いと思う。

私は「健全な批判」というのはあり得ると思っているというか、むしろ自分がネットでなにか発信を続けていく上で必要不可欠だと思っているので、「問題点を指摘するマン」の方は大事にしたいと思ってる。

ポリティカルコレクトネスと「瑕疵ある人間絶対追い込むマン」がうまいこと分離されて欲しい

以下は余談ですが、このコメントが投稿されてる記事についてもちょっとだけ

アメリカでは「ポリティカルコレクトネス」(通称ポリコレ)を主張する人たちが、普段ちょっとでも問題がある発言や表現をした人を、問題点を指摘するだけにとどまらず、その人がクビになったり出版停止やドラマ放送停止になるまで追い込むという運動が度々起こっていた。
日本でも同様の現象があり、最近では「二度目の人生を異世界で」の作者や、「本日わたしは炎上しました」の作者が、数年前のツイッター発言を掘り返されて厳しく批判されていた。


②ポリコレを主張する人たちがあまりに攻撃的過ぎる、として「ちょっとやりすぎではないか?」「これはもはやポリコレ棒とでもいうべきものだ*1」という反発も起きていた。日本では特にポリコレの人たちのストローマン論法が問題となり「まなざし村」などの表現で揶揄する動きも広まってきた。


まなざし村の語源とされている社虫太郎さんのツイートは、相手の意図を自分が都合の良いように一方的に仮定するのは完全にストローマン論法の極致とも言え、この発言自体が揶揄されるのはしごく当然と言える。こういう感じの「邪悪な」タイプの人が結構多いんだよね……。

*2
*3

私個人は「ポリコレを主張する主張する人間はエモーショナルコレクトネスが足りないのではないか」と指摘している。

こういうことを言うと「トーンポリシング」だという人たちがたくさんいますが。批判をしている人たちに限ってそもそも丁寧に話をしていることを見たことがありません。それを主張するなら、まず丁寧に主張してみて、乱暴で攻撃的な口調で他者攻撃をしたときよりも話が通じないかどうか是非試してほしいと思いますね。


metoo運動の際に、真っ先にセクハラで訴えられたワインスタインはリベラル派であり、「リベラルであること」は常に正しいわけではない、という当たり前の事実も確認され始めていた。
http://wezz-y.com/archives/50476/2
(#metoo時に、かなり多くのリベラル派の人が問題行動を指摘されていたことを書いてた記事がありましたが見つからなかったのでとりあえずワインスタイン氏についてのみ触れます)


④ポリティカルコレクトネス陣営の動きへの反動として、オルタナ右翼と呼ばれる人たちが、「ポリコレ」の人たちが普段行っている作法に基づいて「ポリコレ」陣営の人を追い込んだ結果、ポリコレ陣営の人たちがそれが不当だと騒ぎ始める。 (←イマココ)

ポリティカルコレクトネスを主張する人たちは、自分たちの正当性を守るためにも「瑕疵ある人間絶対追込むマン」をなんとかしないといけないと思う

ここで問題なのは、彼らが主張する不当とはなにか、だ。
少なくとも手続きとしては、ポリコレの人たちが普段やっていることと変わらない。ポリコレの人たちも、「二度目の人生で」において、作品を批判するにとどまらず、数年前のツイートを掘り起こして批判につなげていた。そのことをポリコレの人は批判していなかった。つまり、少なくとも過去のツイートを掘り返されることは現時点では批判できない。(私はやめて欲しいと思うけど)

ジェームズ監督を擁護している人の主張は2点。
・監督は「今は反省しており、過去の発言は誤りだと認めている。現在はポリコレ陣営だ」ということ。
・監督は面白い作品を作っている人であり、この件で追われるのは残念であるということ。

うーん。どちらも普通の人の意見としてはありだとしても、「今までのポリコレの人たちの行動を考えると」全然説得力がない。私から見るとやはり「今までのポリコレの人たちの行動は、自分たちが同じ目にあうことを想定せずに、自分たちは一方的に攻撃する側だったという驕りやいじめっこ的な要素があり、行き過ぎだった」「自分自身は問題を指摘するマンだったけど、瑕疵ある人間絶対追込むマンを利用・放置していた事実は否定できない」という話をする必要があると思う。それが出来ないのであれば、「ダブスタ」という誹りは免れないのではないだろうか。もしそういう話になれば、「瑕疵ある人間絶対追い込むマン」や批判につなげられるように思う。

私自身は竹中さんや川上さんの意見には反対だし、問題点の指摘はよくしてるけど、それでも「死ねばいいのに」とか「川上の発言だったらすべて否定する」みたいなやりすぎに対してはNOを主張する立場です。

ただ、これは私からの一方的な見方であり、ポリコレ側の人としては当然これとは違った要素があるだろうから、現時点では判断は保留したい。


悪いことをした時に、問題点を指摘する人がいて、それについてちゃんと謝罪して精算できるというサイクルが回らないと「謝らないマンだけが世にはばかる」になってしまう

私は、過去になんか問題がある発言をしてた人が、それを精算せぬままなかったことにするのは嫌いだ。だからブログ飯や仮想通貨に関して、自分の利益のために無根拠な煽りを繰り返していた人たちなんかは、ちゃんとそのことについて詫びたり責任を取るまで、何年経っても過去発言をほじくり返されても文句は言えないと思う。少なくとも、そういう人間を私は信用しない。

私は場当たり的に、後先考えずに自分の都合の良いように他人を利用して、都合が悪くなったら簡単にポイする人が苦手です。そういう人を見ると「マルドゥック・スクランブル」のシェルという人物を思い出します。

マルドゥックスクランブルについて。今一シェルがわからないです。ルーンや今... - Yahoo!知恵袋

シェルというのは卵の殻の意味です。彼は中身を失った殻っぽの存在です。その場その場の社会的関係を取り繕うだけで精一杯で、中身は何もない。卵(=心)の中身を捨てていくうちに、殻しかない人間に成り下がった存在です。だから卵の中身であるバロット(雛)が殻をつついて割ってしまうと、シェルは中身がない人生を知らされてしまって恐怖にさいなまれてしまうのです。

こういう人間には、過去をつつき返す必要もあるでしょう。だいたいこのタイプは過去を指摘すると逆ギレするのですぐわかります。「それは過去の話だろう、今の自分とは関係ないだろう」とか「いつ私がそんな事を言った、何時何分何秒に?その時のソースを出せ」というような人はちょっと厄介だと思う。

一方で、過去を反省し、それを背負って生きようとしている人もいるとういか、大抵の人はそういう人たちですよね。指摘した時に、そのことを否定せず受け入れるような人に対しては、いちいち過去をネチネチと突きつけるのは無用というか無粋だと思う。

なにより、過去の瑕疵を取り上げて絶対に許さない、ということを言い過ぎると、それこそ「絶対謝らない人」ばかりがのさばるようになってしまうわけで、そうならないためにも「人間は誰でも誤りを犯すのが大前提で、それに対して反省していたり、ちゃんと謝罪できたり、今後はそういう誤りを犯さないだろうと思える人には寛容に」という形になってほしいなと思う。今って、開き直る方が最適解になってて「悪名もまた名声」と考えられる図太い人間ばっかりネットでのさばってる気がする。私は細かいことが気になって仕方ないという意味では神経細いほうなので、そういう人ばっかりのネットだとしんどいです。

フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫)

松岡 正剛 筑摩書房 2005-09-07
売り上げランキング : 99219
by ヨメレバ

*1:私自身は以前の記事で書いたとおり、ポリコレ棒という言葉はもう使わないことにしています

*2:本当を言うと、「問題点を指摘するマン」と「瑕疵ある人間絶対追込むマン」以外に社虫太郎さんのような「どんな理屈を作っても自分が嫌いな相手を攻撃するマン」を追加したいと思っているくらい、この手のタイプは数が少ない代わりに非常に厄介だと思ってる

*3:ただ、私は「まなざし村」という表現があまり好きじゃない。この表現自体は、社虫太郎さん個人に対するカウンターとしては有意義であるとしても、それ以外の人に使う場合はストローマン論法と言える。批判も有る http://lophience.blog.fc2.com/blog-entry-614.html とりあえずこの言葉を使う対象は、社中太郎さんおよび彼の発言に賛同を示す人たちだけに絞るべきであろう。社虫太郎さんは年がら年中ストローマン論法でオタク批判を繰り広げているので、ストローマン論法のサンプルとして誰かまとめてほしいなと思います。「お気持ち自警団」という揶揄にいたっては全く使う気がしない。もうこれは「繊細チンピラ」と変わらないし、こういう表現使うのは「馬鹿っていうやつが馬鹿」みたいな小学生のやり取りじみている