この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

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「ラディカルフェミニズム」は女性のセクシャリティをこのように見做しているらしい

前回記事で紹介したルース・サンプル「リベラルフェミニズム」の続きを読みましたが自分なりに読んだ印象をまとめておきます。
これを読む限りではポルノグラフィーやセクシャリティの問題に関しては、リベラル・フェミニズムとラディカルフェミニズムは男性に対する女性の位置づけ、という前提がそもそも対立しているように見えています。


※追記 以下のような指摘を頂いております。私の記事の至らないところを指摘くださっていて非常にありがたいコメントです。

coenzeim2929  リベフェミで真っ先に挙がるのがストロッセン、いかにもネットでお勉強した感。マッキノンはまさに女性と受動性を繋げるセクシャリティの形式化を批判してるし、ヌスバも彼女に親和的。安直な対比は議論を見失うよ。

とのことです。他にも間違いや不足があれば、反映・修正していきたいと思いますので、是非ご指摘いただければと思います。

※追記2 小山エミさんのマッキノン解説も参考にしてください。



リベフェミの女性認識(ストローセンやヌスバウム) =女性は自ら自律的な意思を持ちうる?

リベフェミは男女の差を強調することを拒否し、個人の主体的選択、特に「市民的自由」を重視します。
ただ、それゆえに「プライベート空間」における問題への踏み込みや、「経済問題への介入」が弱いという批判に常にさらされます。

(1)ポルノグラフィーは政府のコントロールの範囲外にあるべき表現の一形態である。その生産に関して暴力や強要があるのであれば、それ(※暴力や強要)はすでに違法になっている。(※ゆえに改めて「ポルノ」に関してだけ特別な罪を作る必要は無い)
(2)ストローセンさん曰く、「ポルノや男性のための性的娯楽の製作現場の参加に自由に同意できる女性は居ないという主張は、女性の自律と尊厳への無関心をはっきりと示している
(3)検閲は女性に対する差別への抑止とはならず、市民的自由を侵食するだけである
(4)ヌスバウムさん曰く「原則として女性は自分自身を奴隷にしなくてもセックスのために身体を売ることはできる」

フェミニズムの意見は男性の私からしても感覚的に非常に受け入れやすいものです。この前提において女性の権利を守ったり拡大してくという方向性に反対する男性は、昔はともかく今はそれほどいないのではないかと思いますがどうでしょうか。


ラディフェミの女性認識(マッキノンとドウォーキン、ペイトマンなど)=女性はポルノの領域では男性のまなざしによって徹底的に無力化されている存在であり、自律性をもたない?

ポルノはそれ自体が「女性を隷属させる特殊な暴力」であり法的に特別な対処が必要というような主張をしていたら、それはラディフェミということになります。ラディフェミは健全な売春の可能性を否定しているとまでかかれています。

ただし、ラディフェミは「売春の犯罪化」による有害な結果も懸念しており、法的な対処には慎重な人が多いようです→だから「批判はするけど、男どもの自主的なゾーニング」ばっかり要求するわけですね。この部分の解決は男どもに丸投げという状態。

(1)ポルノの製造に参加してる女性は、家父長制度的背景によって拒否する自由が無い
(2)女性のセクシャリティは男性の目的によって奪われ私物化されてきた
 =男から女に対する権力とは、男が女を見るしかた(the way men see women)が女が誰になりえるかを規定することを意味する。
(3)女性のYESが有効となるための自立性(autonomy)そのものが男性のまなざしによって奪われている(※なので、たとえ女性がYESといっても無効)
(4)ポルノはスピーチではない(※なので「表現の自由」の保護対象対象)上、ポルノは女性の男性への隷属を構成(constitute)している。
(5)ペイトマンさん曰く、売春における親密な身体性は、それが単なるサーヴィスの販売であることを不可能にする(※なので売春はサービスではなく奴隷契約のようなものである)

・・・・・・うん、徹底的に女性が無力な人形みたいな存在として認識されてますね。

権力勾配を主張すれば無敵モードになってしまうことや、自分たちの被害性をやたらめったら強調する割には自分たちの言動の加害性に無頓着なのも、ここまで極端に自分を無力だと認識しているのだとすればまぁわかる。


※追記:ちなみにこれが悪いと言ってるわけではありません。下トゥゲッターにおける小宮さんの話を読むと、第二派フェミニズム以前は「セクハラ」という言葉や概念すらなかったということです。なので当時に女性が一方的に男性のまなざしの押し付けの被害にあっているか、を明示することは必要だったと私も思います。このあたりは「リベラル・フェミニズム」だけ読んでいるとわかりにくいですね。
(続きの1)高橋しょうごさん「フェミニズム」と「現代の自称フェミニスト」を語る。 (2ページ目) - Togetter
私はむしろ1980年代の第二波フェミニズムやラディフェミの活動は正当なものであり支持したいと考えています。



さて、この記事では説明を省きますが、ラディフェミは「家父長制がもたらしたもの(伝統的結婚制度や性役割など)を破壊する」ことが主目的になっているようです
なのでつまり「社会」レベルで壁を感じているのではなく、もっと自己イメージが低くて「日常」レベルで身近な家族や男連中にうんざりしつつ、屈辱や無力感を感じている人たちにはリベフェミよりラディフェミが魅力的に感じる人が多いのはまぁ仕方ないところありそうです。


とはいえ、現在においてラディフェミは女性の主体性を否定しすぎだとは思う。「ポルノ産業」に限定するならまだわかりますが(こちらも反論ある人はいると思いますが)、一般論にこういう前提を拡張されるとちょっと戸惑ってしまう。


「欧米の、三次元の、ポルノ」に関する論理を、そのまんま「日本の、二次元の、萌え絵」やキズナアイなどに適用する人は、たぶんとてもまじめで教科書一生懸命読んではいるのだろうけど、応用力に欠けるというか自分の目で見て自分で考えることができないのかなって感じですね。なんかフェミニストでだいぶおかしなことを言ってる人が多いなと思ってたけど前提条件が大きくちがうのにポルノ産業批判の公式をそのまんま当てはめようとしてるからなんじゃないかと思います。

正直言うとこのあたりは法律論になります。素人にが考えても今のツイフェミさんみたいに悲惨なことにしかなりません。しろうと理論はやめて、専門家がちゃんと理論的にリードすべきでしょう。


ただし、リベフェミも、多くの売春やポルノには反対している

ポルノグラフィーや売春に従事する女性の多くが「暴力による強制または支配」を受けている場合は、リベフェミはラディフェミ同等に強く批判する。それは「暴力」という、国家が介入してでも解決すべき問題だから。

一方リベフェミの場合は商業的な性行為については国家の介入は慎重。介入のためには

①強制が行われているということは必要不可欠な条件であるが
②さらに強制されている行為者の利益になるもので無ければならない

という立場をとってる。

「現実の女性の被害」については強く批判されている伊藤和子さんが、キズナアイの問題については介入をしないというのは、彼女がリベラル寄りの立ち位置だからかもしれません。逆に太田先生や千田先生はラディフェミ寄りということがいえるような気がします。実際はもっと複雑でしょうけれど。 このあたりの境界線の考え方もリベフェミとラディフェミで大きく変わると思います。


ラディフェミとはまた違う形でフェミニストに対立する「カルチュアルフェミニスト」もある

リベフェミは「男女間に大きな違いは無い。違いがあるとしても文化的なもの(ジェンダー)。女性も自分の意思を持つし、雇用や教育面で制度的な障壁が取り除かれさえすればその違いは克服できる」ということが前提にある。(※このため、向上心が強かったり、もともとアッパーミドル層に属する女性にはリベフェミが支持されやすい様子。前の記事でも書いたけれどトイアンナさんなどはリベフェミを自認されているそうです。)

一方、カルフェミはそもそも「男女間に大きな差がないは嘘。男女間には本質的に大きな違いがある」という立場をとる。ゆえに「男性に同一化した生活様式」を拒絶するべきであると主張する。

ある意味、ラディフェミよりさらに過激である。

(1)ヘテロだけでなく、LGBTですら、現在のセクシャリティはすべてへテロ男性によって構成されて制御されている(※ゴルゴムなみに全てへテロ男性の欲望が諸悪の根源→じゃけん、そういうヘテロ男性のもたらしたセクシャリティは拒否して、もっと女性とかそれぞれの属性の本質に合致したセクシャリティを追求しましょうね)

(2)女性的な、利他主義や他社に配慮した行為の価値をもっと重視しなければいけない。

女性やLGBTの欲求ではなく「システヘテロ男性の欲求」だけを特別扱いするかえる(ふくろ)さんなどは、このカルチュアル・フェミニスト寄りのインプットをしているのかもしれません。



個人的な感想 =萌え絵論争にラディフェミの教義を持ち込むのはおかしいと思うので、ちゃんと萌えは萌えで個別に考えるべきじゃね?

フェミニズムについて、私のように無知な男側が考える男女同権のイメージは、おそらくリベフェミだと思うんですよね。一方、ラディフェミの前提は、フェミニズムを意識して学ばないとなかなかピンと来ない。特にセクシャリティの面におけるラディフェミの前提は、徹底的に女性が無力な被害者という事になっている。これは感覚的はかなり違和感があります。

こうした感覚が当たり前であり、わからない男たちはダメだ、という態度を取るのも一つの手かもしれませんが、あまり賢いとは思いません。この感覚がフェミニズムに接してない女性の感覚からも外れてきているのはキズナアイの件でかなり明確に示されたのではないでしょうか。



ラディフェミの人たちは、自分たちの前提を共有したいなら手間を惜しんだら駄目だと思う。更にいうと、フェミニズムといってもリベフェミとラディフェミでは前提が正反対といっても良いほど違うため、フェミニストを名乗る場合、ちゃんとリベ寄りかラディよりかも宣言してくれないと、多分話をすること自体が難しいと思います。




もちろんまだ表面的なところを読んだだけなので理解が浅いとか違っているというところがあると思います。次は小宮先生の記事を読んで考えたいと思います。
フェミニズムが「男並み平等」を求めるものでなくなった理由 - frrootsのtwitter補完メモ



追記2
パッと読んだ限りの印象としては、とても面白かったし前提としてしっかり理解しておくべき内容だと感じますが、しかしこれだけでは役に立たないという印象です。

単なる「公的領域における差別の禁止」を超えた、さまざまな政策が現実におこなわれるようになっています。もちろん、政策の水準では、既存の法的な枠組みとの一貫性は鋭く問題になります。たとえば女性の政治・経済参加を促すためのポジティブ・アクションをおこなうには、どのような取り組みなら男性に対する差別にならないかを考えなければなりません。DVの被害を防ぐために加害者が住居に近づくことを禁止することは、加害者の財産権と衝突します。性暴力裁判において女性が二次被害にあわないよう証拠に制限をかけることは、被告人が公正な裁判を受ける権利と衝突するかもしれません。また、ポルノグラフィと性表現規制の問題は、比較的既存の枠組みとの調整がまだあまりうまくいっていないトピックでしょう。

良く言われるように、第二派までの動きを踏まえたうえでフェミニズムというものを考えるべきだ、というのはわかります。しかし

公的領域での「男並み平等」を求めることがフェミニズムの課題ではないという認識が一般的になった現代では、「リベフェミ」「ラディフェミ」のような区別自体にもうあまり意味がないです。ネットの一部で叩かれている「ラディフェミ」なるものは藁人形でしかありません。

https://twitter.com/frroots/status/958942553440624641

とのことですが私はこの部分が全然同意できません。


もしフェミニズムがこの両者の違いを克服したというのであれば、派によって根本的に異なると思われる女性観の違いがどのように統合されたのか是非教えてほしい。少なくとも私がネットで元気な人たちを見ている限りでは、ラディフェミ的な前提が強固に維持されており、リベラル的な視点や女性の強さを信頼するという観点がまるで感じられません。アカデミズムの領域においてはそれは解決済みの問題だというのかもしれませんが、「実践」の領域においては明らかに解決できていないと感じます。

結局小宮さんの記事を読んでも「問題の指摘」部分には頷くところはあっても、その解決と「既存の枠組みとどうやってすり合わせていくか」にについてはまるでアイデアが示されていません。むしろ法などないか、私たちが法だといわんばかりではないですか。実際に「私の感覚が公の感覚である」という宇野さんのような人まで出始めた状況で、小宮さんの言うことは私にはあまり説得力がありません。

フェミニズムにおけるアカデミズムの人たちは、「実践」が大切だというのであれば、問題の指摘よりも、何かの問題について解決のフレームワークや手順を整理していくきなのではないでしょうか。今って何でも「見たくないもの」を指摘してゾーニングって主張するだけの幼稚園児みたいなソリューションしか想像できない人たちばかりじゃないですか。学問としてのフェミニズムに今一番求められる有用性とはこの分野ではないかと思うのです。「表現の自由戦士」とか「オタクモドキ」とかいってヘイターと化した人たちに、正しい物事の進め方をちゃんと諭素くらいしてほしいかなぁ。